第八章 大雪

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 一時間後、ドアがノックされ、院長と看護師の女性が入室した。
「まず、全身の怪我の様子を確認させてくださいね」院長は、少女の右目を見る。「どうしますか? おふたりには、席を外していただきますか?」
「私は、どちらでも」
 部屋の壁際に立っていた久遠狭霧が頷いたのを確認して、院長は看護師に合図を出した。新しく変えたばかりのネットやガーゼが手際よく回収される。
 傷口を晒すことには慣れている。どれほど醜い創傷でも、どこをどう見られても問題はない、と考えていた。けれど、今の自分には眼球がない。右目の傷で、瞼を開けることすらままならない。酷い顔をしているはずだ。彼らにそれを晒すことを、少女は一瞬、今さら、躊躇した。
 どちらでも、と答えたにもかかわらず、それでも青年ふたりと目を合わせることができずに俯いていると、おもむろに院長が体勢を変えた。少女と青年たちを遮る位置に院長が身を乗り出したため、ようやく、少女は僅かに顔を持ち上げる。
「大丈夫ですよ」院長が言った。なにに対しての保証なのかは、よくわからなかった。
 右目の確認が終わると、すぐに看護師が包帯類を装着し直した。その後、全身のチェックがおこなわれる。院長が両手で少女の腕や足を支え、軽く曲げ伸ばしをするたびに引き攣るような痛みが走ったものの、耐えられないほどではない。その程度で済んでいる、ということだ。
 意外にも診察はあっけなく終わり、院長は椅子に腰かけて問診を始めた。
「快方に向かっているようでなによりです。今日のご気分はいかがですか?」
「よく眠れました。気分も、昨日よりは良いのですけれど⋯⋯」
「どこか、痛みがありますか? ちょうど、麻酔が切れている頃ですから⋯⋯」
「ええ⋯⋯、たぶん。痛みがあるのだと、思います」
「たぶんというのは?」
「明確で局所的な痛みというよりは、全身に倦怠感が残されている感じ⋯⋯、かしら」
「治療範囲は全身に及びましたから、そうですね、そう感じられるのも当然です。それでも、驚異的な回復力ですよ。間違いなく、貴女の細胞の特異性に助けられた形です。我々の力だけではどうすることもできなかったと思います。本当に、力不足で⋯⋯、ですから、これからのケアには、せめて、お力になることができればと考えております」
「もう、充分支えていただいています。こうして、此処に留めておいてくださるだけで、充分すぎるほどです」
「ただ、早速、我々の力不足をもう一度、皆さんにご説明しなければならないのですが⋯⋯」
 院長はそう前置きをし、少女に正面を向けていた躰をずらした。院長が青年ふたりに着席を勧めるが、久遠狭霧だけが近くにあった椅子に座る。名護真崎は腕を組み、扉近くで待機するように立ったままだ。
「まず、右目についてですが、此方は⋯⋯、近衛さんの細胞の回復能力を以てしても、治療は不可能だと判断されました。目許の傷も、恐らく、ケロイド状に傷痕が残ると考えられます。義眼を装着していただくこともできますが⋯⋯」
「そう」少女は淡泊な返事をした。「義眼の有無については、後日お答えします」
「ええ、はい、もちろんです。急ぐものでもありません。本当に、お力になれず⋯⋯、その他の、全身の切創については、時間がかかるとは思いますが、完治するでしょう。あまり深い傷でなかったことは幸いでした。この調子であれば、食事もじきに可能です。車椅子もご利用いただけますから、中庭など、外に出られても良いかと思います」
「はい」
「それと、目について、もう一点⋯⋯、片目の視力を失っていますから、リハビリが必要になります。入院中にそういったご指導ができればと考えておりますが、しばらくは物の距離感など掴みにくいですから、あまりひとりで行動なさらないように。おふたりもついておられるので、その点については、大丈夫だと思いますが、もちろん、看護師のことも、いつでも呼んでいただいてかまいませんから、遠慮なく」
「お気遣いありがとうございます」
 院長は最後に簡潔な業務連絡を述べると、看護師と共に退室した。
 ベッドの上体は起こされたまま。
 顔を窓のほうに傾ける。快晴だった。あの日、右目を抉られ、躰のそこかしこに刃先を入れられて最後に見た空も同じ、よく晴れた青空だったはずだが、あのときの空にはほど遠い。
 これからどうなるのだろう、と他人事のような疑問を抱いた。
 直継にとって『近衛斎』という存在は、価値もなければ脅威ですらない。『イヴ』の器に突如として宿ってしまった、寄生虫のような自我。それが『近衛斎』であって、もとより処分の対象でしかなかった。
 既に、自分は中立組織のひとつであった近衛家の保護下を外れている。久遠寺は、当然、『近衛斎』を排斥したい。少女が生き延びようが息絶えようが、彼らは、久遠狭霧を直継の手から守るために、この繋がりをなんとしてでも断ち切りたいはずだ。
 国家でさえ、少女を排除したい立場の組織。
 この病院だけが今、中立機構として少女を匿ってはいるが、それも、少女の細胞や遺伝子情報という国家機密を得るため。細胞や遺伝子の提供は、いずれ必要がなくなる。細胞など、培養してしまえばいい。オリジナルから採取し続けなければならない理由はどこにもない。『近衛斎』を匿うメリットはじきになくなるだろう。
 そのときが来たら、私はどうなる?
 自分の未来なんて、考えたことがなかった。
 まさか生き延びてしまうとは思っていなかった。まさか、まだ彼らが私を覚えているだなんて思わなかった。だから、どうすればいいのかわからない。全部捨ててしまった。もう私にできることもない。私がすべきことも、もうない。あったとすれば、それは消滅だったのだ。『私』の消滅。『イヴ』の復活。私に望まれていたことはそれだけだ。
「元気になったら、まずは蕎麦やな」
「え?」
 突拍子もない単語に、少女は思わず顔をそちらに向ける。
 久遠狭霧は意外にも近くに立っており、ちょうど椅子に座ろうとして腰を屈めているところだった。青年は少女を見ると、僅かに眉根を寄せる。
「俺の好物食いたいって、自分が言うたんやろ」青年が椅子に腰かける。
「あ、ええ⋯⋯、そうね」
「あと、あの蟹の店には絶対行くとして⋯⋯、真崎が気に入っとるあそこの寿司屋も行くやろ。それと⋯⋯、あ、いやでも、蕎麦でおすすめの店いうたら、やっぱり地元の店がいいよな。地元いうてもだいぶうえにあるんやけど、蕎麦で有名なところがあってな。昔、その店で、俺と真崎でわんこそば挑戦してん。そこ、食うた皿の数と名前書いた札が壁中にかかってて、たぶん、俺らの札もまだかかってると思う」青年はいたって真面目な表情で淡々と語りながら、指をひとつずつ立てて数える。「それから、なんやっけ、俺らがゲームしとるとこ見たいんやった? べつにそんなん、いつでも見たらええけど⋯⋯、それやったら、こっちにゲーム持ってきとけば良かったな」
 青年は、しばらくして、数えていた指の動きを止めるとゆっくりと手を下ろした。
 そして、少女の目を、正面から見据える。
「これからは、嬢さんのやりたいこと、なんでもできるで」
「私の⋯⋯」
「そう」青年が頷く。「お前の人生なんやから」