第八章 大雪

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 重い瞼を持ち上げる。硬い布の感触。起き上がろうとして、腹部に鈍い痛みが走った。
「狭霧?」蛍光灯の眩しさと強烈な眠気に抗いながら、どうにか瞼をこじ開けて目を動かすと、真崎らしき人影が此方を覗き込んでいるのが見えた。「狭霧か?」
「どこ、此処⋯⋯」
「病院の控室だ」あからさまな安堵を含ませて、真崎が答える。
「なんか、腹、めっちゃ痛いねんけど⋯⋯」
 真崎の手を借りて上体を起こす。硬いソファの上に寝かされていたらしい。ソファに座ると、鈍重な頭が揺れているのがわかった。額を押さえて目を閉じるが、まだ少し気分が悪い。
「腹以外は?」
「ちょっと、気分悪い⋯⋯」
「なら、院長に頼んで、ちょっと診てもらうか? こんな時間だけど、起きたら知らせてくれって言ってたし⋯⋯」
「今、何時?」
「夜の、二十三時半」
「どこやっけ、此処⋯⋯、病院?」
「そう、集中治療室の、控室」
「集中治療室⋯⋯」
 突然、思い出した。
「嬢さん、」立ち上がる。躰が揺れた。一気に吐き気が込み上げるが、それどころではなかった。「近衛、おい、近衛は、」
 真崎の制止を無視して控室の扉を開け放ち、向かいに面した集中治療室に駆け寄る。叩くようにして窓に張りつき、中を覗き込んだ。
 真っ白なベッドの上で、近衛が横たわっている。
 ネットやガーゼ、包帯が頭部の半分を覆っている。いくつもの大きな機械が彼女を取り囲んでいた。何本もの管が彼女と機械の間を這っている。防護服に身を包んだ物々しい人間が、機械に触れ、管に触れている。
「ひとまず、容態は安定したらしい。でも、意識は、まだ⋯⋯」
 その言葉を聞いた途端に、足の力が抜けた。その場にしゃがみこみ、壁に額を押しつけて項垂れる。
「狭霧!」
「生きとる、」腹部の鈍い痛みも、爪に残留した僅かな痛みも、思い出した。「生きとる⋯⋯」
 壁の無機質な冷たさと、躰の裡から痺れ、滲む熱。目頭に強い熱が集まり、眉根を寄せて目を瞑る。
 慌てた足音が此方に近づき、すぐ傍で誰かが片膝をつく。
「大丈夫ですか?」知らない男の声。「どうぞ、一度控室へ⋯⋯」
 確かな力に引き摺られるようにして立ち上がり、再び控室に戻る。ソファに座ると、正面に医者が腰を屈めて此方を覗き込んだ。
「すみません」俯き、目を閉じる。「大丈夫です⋯⋯、ありがとうございます」
「あまり無理なさらないように」医者が立ち上がる。「それと、一度家に戻られたほうがよろしいでしょう。心配なお気持ちはよくわかりますが⋯⋯、まずはしっかりと休んで、それから、患者さんの意識が戻るのを待ちましょう。そんなに酷い顔をしていては、きっと、患者さんが起きたときに、心配させてしまいますよ」
 はい、と呟いた声は思いのほか掠れていた。
 医者は「お大事に」と言葉を残して控室をあとにした。
 真崎とふたり、取り残される。
 少し離れた場所に立ち、ソファに座る俺に躰を向けてはいるものの、声をかけてくることはない。幽かなモータ音が、低く空気を振動させている。それが、控室の静寂を際立たせていた。
 上体を前傾させて、両手で顔を覆う。
 思い出した。
 全部、思い出した。
 血塗れで、力なく地面に投げ捨てられていた彼女の姿を思い出した。突きつけられた錫杖の温度を思い出した。見知らぬ男がいた。男の言動全てに抱いた、激しい怒りを、激しい後悔を、思い出した。
 自身の躰がどう動かされたのかも。
 魔術の反動も。
 そのときに見ていたものも、まるで、他人の視界のように。
 そして、
 握りしめた眼球の感触を、
 濡れた血の温度を、
 覚えている。
 自分ではない男が、自分の中に、たしかにいた。
 自分の躰が、自分ではない者の意志によって動く奇妙な感触。夢のような意識の中で、ただ、流れる映像を見ているだけ。
 あのまま、閉じ込められていたら?
 今頃、遅れて恐怖が押し寄せる。
 無理やり息を吐き出した。顔を覆った手のひらに当たる温い息の湿度。自分の躰。自分の意識。自分の記憶。今あるものはそれだけだ。けれど、自分が自分であることを証明するものもまた、たったそれだけだ。
 目を開ける。
 指の隙間から、控室が見えている。指の輪郭は歪み、捻じれて、揺れている。異様なまでに、鮮明に見えている。
 朱雀と名乗った男の記憶はない。男の思考回路に、自分は触れることができない。
 そんな男が、唯一残していったもの。
 それが、きっと、この視界だ。
 自分が今なにを見ているのか、今ならわかる。これは欲だ。欲の歪みだ。魔力の原型、魔力の根源。久遠寺の蔵に閉じ込められていたはずの、欲望、本能、感情。
 彼女に出会うために、俺はあの蔵を開けなければならなかったのだ。
 全て、仕組まれていたことか?
 全て、決まっていたことか?
 全て、呪いだったのか?
「知るか」吐き捨てる。「知るか、そんなこと⋯⋯」
 思い出した。思い出してしまった。知ってしまった。それでも。
 『久遠狭霧』としての意識で真っ先に思い出したことは、彼女のことだった。真っ先に安否を確認した。生きていたことに、自分は、心の底から安堵した。
 充分だ。
 それだけで、充分だろう。
「家に、帰ろう」乾いた喉に、粘性の高い唾が引っかかる。「帰って、休んで、学校行って、それから、また、此処に来る」
 真崎は頷くことも、否定することも、声を出すことすらしなかったが、自分がソファから立ち上がり、荷物を持って部屋を出ると、真崎も倣って歩き始めた。一度、廊下から病室の様子をたしかめた。彼女は依然として瞼を閉じたまま。
 目を瞑り、軽く頭を振ってから、集中治療部をあとにした。
 バイクに乗ってマンションに戻った頃には、日付が変わっていた。シャワーを浴びるために服を脱ぐと、腹部に痣が広がり始めていた。あの男に膝を入れられたときのものだ。全身が僅かに気怠く痛むのも、普段生活する上ではまずすることがない動きをしたせいなのだろう。
 シャワーを終えてすぐ、真崎に声をかけてから自室に入ったが、言葉が返ってくることはなかった。バイクに乗っているときから今まで、真崎は一言も喋らない。
 翌朝、昨日より明確になった痛みに顔を顰めながら登校の準備をし、自室を出る。テーブルの上にはラップに覆われた朝食が置かれていた。すぐ傍にメモがあり、家を出るまでには戻る、とだけ書かれている。
 朝食を食べ終えた頃に、汗だくになった真崎が戻ってきた。此方に目を向けずに浴室に直行した真崎は、シャワーを浴びて手際よく準備をし、登校する。クラスメイトに対しては空恐ろしいほどいつもどおりに接していたが、自分に対して、真崎が必要最低限の言葉以外に口を開くことはなかった。
 ほとんどなにも覚えていない授業を受けて、学校が終わると病院に直行し、面会時間が終わるまで控室で待機する。ときどき廊下から様子を伺うが、一枚の静止画が窓に貼りつけられているのではないかと疑うほどには変化がない。
 そんな虚ろな日々が続いた。
 数日後。
 昼休みに、突如携帯が鳴った。
 机に突っ伏していた上体を起こし、ズボンのポケットを探って携帯を取り出す。画面には、『病院』の二文字。
 思わず、真崎のほうを見た。
 真崎も此方を見ているらしい。こんな意思疎通さえ、随分と久しぶりのことに感じた。
 画面をタップし、急いで耳に押し当てて、ゆっくりと、恐る恐る返事をする。
 院長が息を吸う音が、聞こえた。