第八章 大雪

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 機械音。天井。シーツの手触り。痛覚。人工的な光。瞼の怠さ。全身に張りついた違和感。
 目が覚めた。
 夢は見ていない。
 自分が誰だったのか、それを思い出すのに少し時間がかかった。
 記憶がうまく取り出せない。
 状況が把握できない。
 目を動かした。妙に引き攣った皮膚の感触。自分の躰から何本かの管が伸びている。視界の端を掠める機械。ベッド。白いシーツ。片方の目が開いていないらしい。開こうとしても、なにかに押さえつけられている。或いは開き方を忘れたように、うまく力が伝わらない。
 腕を動かしたかったけれど、辛うじて指先が数ミリ動いた程度。
「近衛さん?」防護服に身を包んだ女性が、興奮を押し殺したような声で囁いた。「ああ⋯⋯、良かった、意識が⋯⋯、近衛さん、わかりますか?」
 研究所ではない。
 あの場所に、私を『近衛斎』と呼ぶ人間はいない。
 病院?
「え?」気づいた瞬間、「あ、」処理が追いつかない、「ああ⋯⋯」心臓が、早鐘を打つ。
「近衛さん?」
「うそ、」
「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
「嘘よ、」
「大丈夫ですよ、」
「あ、」
 自分は、生きている。
 生き延びている。
 鉛のように重たい腕を動かして、全身に走る痛みを無視して、躰を捻り、ベッドから落下する。床は冷たかった。躰の側面に鈍い衝撃が走った。針のような痛みがどこかで一瞬走った。
 床を這いずった。周囲が騒音に包まれた。指を伸ばし、床を這う。腕の力で支えきることができない躰が、また、床に打ちつけられた。
 どうしよう。
 生きている。
 生き延びてしまった。
 早く、早く、早く。
 次こそは必ず。
 もう、
 こんな世界で生きていくのは、耐えられなかった。
 なにかを叫んでいる。なにを叫んでいるのか、自分では認識できないけれど、なにかを叫んで、叫び声にもならないまま、曖昧な悲鳴のような音。
 顔に、目に、全ての熱が集中している。
 手のひらは冷たい。床に触れた躰も冷たい。けれど、目だけが熱い。
 熱い液体。
「おねがい、」防護服姿の女性に取り押さえられた。「ころして、」さらに別の男性に動きを阻まれた。
 あの人はもう、私を覚えていない。
 あの人はもう、私に出会っていない。
 彼らは私を知らない。
 私がいない世界で幸せになる。
 それでいい。
 それでいいから、お願いだから、
 もう、耐えられない。
 もう、許して。
「ごめんなさい、」
 そんなに、いけなかった?
 あの人に会いたいと願ったことが、
 そんなにも、いけなかった?
「ゆるして、」
 これでやっと、許されると思ったのに。
 まだ、許されない?
 だから、まだ、生かされている?
「おねがい、」
「ごめんな」
 泥の匂いがする。
 雨の匂いがする。
 冷たいぬかるみの感触がした。凍てついた雨の痛みがある。
 そんなものは、もうどこにもないのに。
「でも、責任は最後まで取ってもらわな」
 誰かが、傍にいる。
 あの日と同じ。
「弟のこと、よろしく」
 泥の匂いも、
 雨の匂いも遠ざかって、
 残ったものは冷たいリノリウム。
 僅かな塩素臭。
 次に感じたものは、軟らかな肌ざわり。
 手のひらの湿度。
 微睡みのような温かさに包まれている。
 瞼を持ち上げて、乾いた布の滑らかな感触をたしかめた。けれど、右手だけが湿度を纏っている。右手だけが、局所的な圧迫を受けていた。
 右手のほうに、顔を傾ける。
 項垂れた男性の頭頂部が見えた。
 黒い髪だけが見えた。それと、自分の右手を挟むようにして握りしめている両手。
 その手の感触を、ようやく知覚した。
 祈るような姿勢だった。此方の手を両手で覆ったまま持ち上げて、額に押しつけて項垂れている。
 手を動かそうとしてみたけれど、やはり、指が数ミリ動くだけ。
 それでも、その青年は弾かれたようにして顔を持ち上げた。
 大きく見開かれた目が、まっすぐに、此方を見ている。
「嬢さん」掠れた低い声で、久遠狭霧が呟いた。「嬢さん、」
 手を握ったまま勢いよく立ち上がると、しかし、青年はすぐにまた腰を屈めて此方を覗き込む。
「良かった、近衛⋯⋯、どっか痛いところとか⋯⋯、気分は? 大丈夫か? 痛むところとかは?」
 唇を薄く開くことはできたが、発声ができない。
 少し視線を動かすと、青年の奥、部屋の隅に、名護真崎が立っているのが見えた。
 形の良い眉を寄せて此方を見ていた彼は、やがて、静かに息を吐き出した。
「無理せんでいい。大丈夫やから⋯⋯」
 名護真崎が退室する。青年はその様子を横目で確認していたが、すぐにまた、此方に向き直る。
「良かった」頻繁に、何度も手を握り直される。「ほんまに⋯⋯、良かった」
 数分後、名護真崎が看護師の女性を連れて部屋に戻ってきた。入室し、少女と目が合うと、看護師は笑みを浮かべた。
「気分はいかがですか?」ゆっくりとした口調で語りかけてきた。「今から、少し、体調を確認しますね」
 看護師が近づく。青年が立ち上がろうとした。
 咄嗟に、青年の手を握り返す。
 ほとんど指を動かしただけの弱い力だったが、彼は中腰のまま、驚いたように此方を見た。
「そのままで、大丈夫ですよ」看護師の女性が言った。
 青年は僅かに戸惑いの滲む表情を浮かべていたが、此方の手を握り直すと、再び椅子に腰かけた。
 簡易なバイタルチェックがおこなわれている間、少女は、窓の外を見ていた。あれから何日が経過したのか、外には、穏やかな午後の青空が広がっている。
「本当に、良かったですね」看護師が微笑む。「バイタルに問題はありません。気分はいかがですか?」
「すこし⋯⋯」喉が乾燥で痛む。声も枯れていた。
「まだ少し、ぼんやりしていますか? 痛み止めのお薬のせいだと思います。しばらくは、ゆっくり眠って、ゆっくり休んでくださいね。私は一度、点滴の準備をしてきます。すぐに戻ってきますからね」
「本当に、ありがとうございます」久遠狭霧が看護師に頭を下げた。
 看護師が点滴の準備をして再び戻ってくるまで、誰も口を開かなかった。点滴の管に繋がれてしばらく経過した頃になって、ようやく、久遠狭霧が話しかけてきた。
「ほんまに、良かった」
 彼は、私を覚えている。
 また失敗した。
 けれど、全身が虚脱感に沈んでいる今、窓から飛び降りるどころか、少女は起き上がることさえできない。
「ごめんなさい」掠れた声で、少女は呟く。
「近衛」青年が、一転して眉根を寄せる。それに伴って、右手を握る力も強められた。「ええ加減にせんと、さすがに怒るで」
「私、本当に⋯⋯」知らぬ間に、涙が一筋流れていた。「本当に、なにも、できない⋯⋯」
「今、こうやって、目ェ覚ましてくれただけで充分やろ」
「私じゃ、なかった」鼻の奥が痛む。目の奥に、強い熱が集まっていた。「私の呪いじゃ、なかった」
「呪い?」
「貴方に出会うことだけは、私だけのものだって、思っていたのに」
 私はまだ、生きている。
 呪いによって生かされている。
 まだ、呪いが達成されていないということだ。
 まだ、出会うべき人と出会っていないということだ。
 私と貴方じゃない。
 出会わなければならなかったのは、私ではない人と、貴方ではない人。
「私は、貴方を、こんなことに巻き込んだだけで、」
「嬢さん」
「ごめんなさい、『私』が残って、しまって、貴方に会いたいなんて、願ってしまって、ごめんなさい」熱い液体が、頬を濡らす。「『私』で、ごめんなさい⋯⋯」
「俺は、お前に会いたかったから」熱い体温が、たしかな力で、手を握った。「良かった」
 たったその一言で、涙は止まらなくなった。
 その一言で、近衛斎は許され、あっけなく救われてしまった。