第八章 大雪

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 涙が落ち着くと、近衛斎は自らの現状をふたりの青年に伝えた。
 伊勢残を通して直継からコンタクトがあったこと。それを利用し、自分を囮に使うようにと久遠寺に進言したのは他ならぬ自分。呼び出されたあの日、あの時刻、少女の役目は伊勢残と直継の人間を引き止めること。彼らの手に渡ることで時間を稼ぎ、その間に、名護真崎が久遠狭霧を連れて久遠寺に戻る。そうして、当初の計画どおりに事を運ぶ予定だった。
「その計画って、そもそも⋯⋯、なに?」久遠狭霧が不満げに眉を寄せる。「なにを企んどったかしらんけど⋯⋯」
 少女は、先ほどから微動だにせず部屋の奥隅に立ち竦んでいる青年に視線を向けた。名護真崎は一度視線を足許に落としたが、やがて顔を持ち上げると、深々と頭を下げる。
「オレが、全部話します」
「真崎?」
「ごめん。本当に⋯⋯、ごめん」
 青年が立ち上がる。一瞬、握られている少女の手に目を留めた。指を開き、力を抜くことで離すように促すと、青年は慎重に手を離した。少女の手をシーツの上に置き、すぐに名護真崎と向かい合う。
「真崎。顔上げてくれ」
「お前を、実家に連れ戻して⋯⋯」名護真崎は頭を下げたまま言葉を続けた。「近衛さんに関わる記憶を、消す手筈だった」
「は?」青年の動きが止まる。「記憶?」
「お前と近衛さんは出会ってなんかなくて、オレたちは実家に戻って、地元の高校に転入して、魔術のことも、直継なんて存在も、近衛さんのことも、全部⋯⋯、全部、忘れさせて、なかったことにする、計画、だった」
「記憶って⋯⋯、そんなん、うまくいくはずないやろ。そんなこと、できるわけ⋯⋯」
「いいえ」少女が口を挟むと、青年は素早く顔を此方に向けた。「ミリ秒オーダの神経活動の制御は、既に、実現可能な技術です。手法が確立されてから、もう、十年は経過しているはずだけれど⋯⋯、だから、魔術というエネルギィによって、異なるアプローチで記憶を改竄することはできない、とは⋯⋯、言えないと思うわ」
「そう、なんや」
 青年は数秒間、視線を床に彷徨わせていたが、再び名護真崎のほうへゆっくりと躰を向け直した。
「真崎」そして、静かに頭を下げる。「俺のほうこそ、ごめん」
「なんでお前が⋯⋯」
「お前が頭下げるなら、俺も頭下げなあかんやろ」
「オレは⋯⋯、オレは、お前の気持ちなんて無視して、家の命令どおりに動いて、近衛さんまで利用して、見殺しにして、結局、逃げることもできずに、お前を危険に晒して⋯⋯、最悪だろ。全部最悪だ。全部踏みにじって、全部台無しにした。なんにもできなかった。オレには、なんの力も、覚悟もないんだって、思い知らされただけだった」
「お前にそうさせたのも、今起こってることの大体の原因は、俺と、嬢さんやから、俺も謝る」
「違う、」
「なんも違わん。たとえそれが、正確には、俺たちじゃないほうやったとしても、同じことや」
「ちげえよ!」名護真崎が叫んだ。「お前のどこが、あいつと同じだってんだ。全然ちげえよ、全然知らない奴で、あんなの、お前なわけないだろ。いっしょにすんなよ。あいつの、朱雀のせいだったとしても⋯⋯、それがそのまま、全部、お前のせいになったりなんかしねえだろ!」
 青年は答えない。
 その沈黙に、名護真崎は苦しそうに顔を顰め、唇を嚙み締める。
「意味わかんねえ」彼は、吐き捨てるように呟いた。「意味わかんねえよ⋯⋯」
「お前が家の命令に従ってるなら尚更、お前を縛りつけるわけにはいかん。お前が、そんなもんに縛りつけられて良い理由なんかどこにもない。もし、計画どおりに近衛を見捨てて、俺らが無事に逃げ切れてたとして、いちばん苦しむのも、いちばん背負わなあかんのもお前や。俺は、そんなこと許せるほどお前に優しくないし、俺は、お前のことも、嬢さんのことも一発殴らな気ィ済まん」
「じゃあ、殴れよ」
「あ?」
「殴れ。殴って、怒鳴りつけて、オレのことなんてもう信用ならねえって、もう嫌いで嫌いで仕方ねえんだって、そう言えばいいだろ」
「悪いけど、」
「早く、いいから、そう言えよ」
「言わん」
「頼むから、」
「俺はお前をいちばん信用しとるし、俺は、お前のこと、びっくりするほど嫌いじゃないから。やから、絶対に言うてやらん」
「なんで⋯⋯」名護真崎の顔が歪む。「なんでだよ、この馬鹿⋯⋯」
「馬鹿で悪かったな」
「本当に、なんでこんな、馬鹿みたいにお人好しなんだよ、お前」
「お人好しって⋯⋯」青年は不服そうな表情で此方を振り返った。「俺が?」
 少女は微笑みを浮かべようとして、しかし、思うように動かせずにぎこちない表情を浮かべるに留まる。しかし、青年には意図が伝わったのか、彼は口を尖らせて視線を逸らした。
 少女は、久遠狭霧から、名護真崎に視線を移す。
「名護くん」少女の呼びかけに、彼は静かに顔を上げた。「此方に、来て」
 数秒の躊躇。
 それから、慎重に、彼は歩き始めた。久遠狭霧と立ち位置を交代し、少女のすぐ傍に立つ。
「屈んで⋯⋯、そう、もう少し」
 少女の指示どおりに腰を屈めた青年に向けて、腕を持ち上げて手を伸ばす。鉛のように重い腕だった。神経の違和感。乱雑に、引き攣る痛みがあった。点滴のチューブを挿入した腕を動かすと、久遠狭霧が慌てて制止しようとする声を上げたが、少女は、腕をさらに持ち上げる。
 目の前の青年は、怪訝そうに、どこか不安げに此方を見ている。
 その顔に、少女は手のひらで触れた。
「あの⋯⋯」
「少し、我慢してね」
「近衛さん、あの、これ、一体⋯⋯」
 腕を上げたままの体勢は、想像以上に体力を消耗した。一秒、また一秒と経過するごとに、腕に怠さが蓄積されていく。それでも尚、少女は腕を持ち上げたまま、彼の頬に添えた手を少しずつ動かした。輪郭をなぞる。高く筋の通った鼻の形を指先で拾った。長い睫毛を掠め、薄い瞼や額、口許や顎まで、余すところなく触れていく。ひととおり顔に触れたあとは、さらに腕を持ち上げて髪に触れた。少し硬い髪の感触の中に指を沈める。
 最後にもう一度、青年の顔を覆いながら、手のひらを滑らせた。
「私が手を離したら、すぐに、久遠くんのほうを見てね」
「え?」
 手を離す。
 彼は屈めていた躰を伸ばして、そちらを見た。
 久遠狭霧の目が、見開かれていく。
「狭霧?」名護真崎が、驚いたように言った。「お前⋯⋯、なんで、目が合って⋯⋯」
「なんやねん、お前⋯⋯」青年の声は震えている。「想像の百億倍くらい、恰好よくなっとるやんけ」
「狭霧、」
 青年が、大きく足を踏み出して名護真崎に歩み寄る。そして、飛びかかるようにして彼の躰を抱き締めた。首に回した手が、彼の制服を、皺になるほど握り締めている。その指先も、青年の躰も震えていた。
「もう二度と、お前の顔、見れんと思った」そう呟いた青年の声はほとんど掠れていた。「目ェ合った、今のは、俺にも、わかった、真崎」
 青年が洟を啜る。幽かな嗚咽が数度漏れた。声にならない呻き声を零しながら、久遠狭霧は、彼に回した腕の力を強めていく。
 名護真崎が、目を動かして、少女を見た。
 少女が微笑むと、彼は今にも泣いてしまいそうな顔で、青年の背中に腕を回した。