第八章 大雪

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 突如、濡れた咳と共に血が零れた。
「陽桐さま!」耳鳴りで痺れた頭では、その呼び声もどこか遠い。「血が⋯⋯、救急車を、早く!」
「いや、救急車は⋯⋯」咳き込む。そのたびに血が溢れ、口許を覆った手のひらを染め上げていった。「大丈夫⋯⋯、要らんよ。病院行っても治らんから、これ」
 立ち上がり、制止の声を振り払って部屋を出る。手の甲で口を拭った。幸い、これ以上吐血する気配はない。原因も明らかだった。
 父の予定を思い出して、すぐに舌を打つ。この時間は客間で応接中だ。次いで、名護真蔵の予定を思い出しながら廊下を足早に歩いていると、曲がり角で、ひとりの少年が躰を隠すようにしながら此方の様子を伺っていた。
「ちょうど良かった。すまんけど、真蔵さんに伝えてくれるか」そう声をかけると、少年は曲がり角から姿を現した。作務衣を着用した、これといった特徴のない少年だった。「それにしても⋯⋯、ほんま、予想より随分早かったな。それやったら、あのまま、こっちに引き止めとけば良かったのに⋯⋯」
 少年は首を傾げていたが、すぐに頷き、姿を消した。
 再び廊下を歩く。激しい鼓動と連動して、呼吸の苦しさも徐々に増していく。眉間は寄せられ、無意識に歯を食いしばっていた。
 目的地に到着した。
 声もかけずに、障子を勢いよく開ける。
「は?」部屋の中央で胡坐をかいていた真墨が、驚いたように此方を見上げた。「え、なに?」
 どうやら爪を切っている最中だったらしい。珍しく本気で驚いたような表情を浮かべている真墨の顔を見ていると、次第に笑いが込み上げてきた。
「なに笑ってんの?」真墨は爪切りを新聞紙の上に置くと、その場に立ち上がり、怪訝そうに此方の全身を見た。「ていうか⋯⋯、なに、その血」
「血ィ吐いた」
「だから、なんで?」
「なんでやろなあ」思わず、笑い声が零れる。「はは、おもろ」
「大体、あたしのところに来られても困るんだけど。どうせそっちの事情でしょ?」真墨は腕を組み、片方の眉を持ち上げる。「まさかとは思うけど、今からどっか行くからついてこい、とか言うんじゃないでしょうね」
「大正解」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。あんたが今行くべきは病院くらいでしょ」
「うん、だから、病院」
「ああ⋯⋯」真墨はわかりやすく顔を歪めた。「めんどくさ⋯⋯」
「今、自分が行けって言うたんやん」
「わざわざ新幹線に乗って関東の病院に行け、なんて誰も言ってないわよ」
「ってことで、三十分後に集合よろしく」
 真墨はさらに眉を寄せたが、なにも答えなかった。
 顔や手を洗い、法衣からスーツに着替えた。三十分後、簡単にまとめた荷物を手に所定の場所に向かうと、既に車が準備されていた。助手席に乗り込む。運転席には、やはりスーツに着替えた真墨が座っている。薄い色の髪は先ほどより丁寧に結い直されており、簡単に化粧も施されていた。
「お父さまたちは、なんて?」前を向いたまま真墨が言った。
「ん? うん」シートベルトを締めながら答える。「行ってらっしゃーい、って」
「下手くそ」
 真墨は鼻を鳴らして笑うと、流れるような動作で車を発進させた。
 助手席の背に躰を預けて、窓のほうに顔を傾ける。ようやく、躰の節々を蝕む痛みに意識が向いた。目を閉じて、益体もないことばかりを考えた。
 駅の駐車場に車を停めて、新幹線に乗る。三時間強、お互いに口を開かない。一度だけ、車内販売のワゴンがやってきた際に、真墨はひとつだけホットコーヒーを購入して此方のテーブルの上に置いた。やり取りといえばそれくらいだった。余計な対応に労力を割かなくても良い、というのは非常に快適で、気が楽だった。
 新幹線を降りると、既に辺りは暗くなっていた。コートを羽織ってくるべきだった、と後悔を覚える程度には風が冷たい。
 電車に乗り換えて病院に向かう。到着して受付に声をかけると、すぐに、院長が現れた。
「久遠さん、わざわざお越しいただいて⋯⋯」
 院長が軽く頭を下げたので、自分も頭を下げる。
「お久しぶりです。突然申し訳ありません」
「院長室にご案内しましょう」
「いえ。まず、先に、よろしければ、集中治療室に案内していただけますか?」
「それはかまいませんが⋯⋯」院長は困ったように眉を寄せた。「面会は、まだ⋯⋯」
「勿論です」微笑みを浮かべる。「承知しております」
 院長に連れられて隣の病棟に移動し、集中治療部に足を踏み入れる。窓越しに、ベッドで力なく横たわったままの少女が廊下から確認できた。
「陽桐さま」
 声が聞こえた方向に顔を向けると、ご家族さま控室、と書かれた広い部屋から名護真崎が慌てたように姿を見せた。
「どうして⋯⋯」
「やっぱり、こっちにおったか。困ったなあ。今、狭霧には会いたくないねんけど⋯⋯」
「それが、狭霧はまだ、眠ったままで⋯⋯」真崎くんは、真墨のほうに伺うような視線を一瞬向けた。
 真墨は少し目を細めたが、すぐに、此方を追い返すような仕草で片手を振った。自分は真崎くんと共に、控室の中に入る。控室のソファのひとつには、狭霧が横たわっていた。規則正しい呼吸をゆっくりと繰り返している。
 控室の窓から廊下を確認すると、真墨は集中治療室の前で立ち止まっていた。彼女の個室の前だった。
「うん。それで?」躰を正面に向き直して、此方から続きを催促する。
「あの⋯⋯」真崎くんは数秒ほど言い淀むと、突然、その場に膝をつき、頭を下げた。「申し訳ありません」さらに、床に擦りつけんばかりに頭を下げた。「本当に、申し訳ありませんでした」
 名護真崎の土下座を、ぼんやりと見下ろしていた。
 彼の指先は僅かに震えている。
 まだ頭を床に押しつけようとしている彼を見て、軽く頭を振って意識を現状に集中させた。
「それ、なにに対しての謝罪?」
「指示を守ることができませんでした。逃げおおせることも敵わず、守るどころか、狭霧を危険に晒しました」
「べつに、俺、君のこと咎めにきたわけじゃないから。とりあえず、狭霧も真崎くんも無事なんやし、良かったやん。な?」
「お願いします」彼は、まだ、頭を下げたまま。「私になにをしていただいてもかまいません。その代わり、記憶だけは、狭霧の記憶だけは、近衛さんの命だけは、お願いします、どうか⋯⋯」
「記憶の消去なんて、俺ひとりでできることじゃない。ちょっとでも魔術を齧った君なら、ようわかるやろ」片膝をつき、顔を覗き込んだ。「な、だから、顔上げてくれへんか。こんなところ、狭霧とか真墨に見られたら、俺、多分、原型留めんくらいボコボコにされてまうからさ」
 真崎くんはようやく顔を持ち上げたが、真墨によく似た整った顔立ちに疲弊の色を滲ませていた。
「申し訳ありません」そう呟いたあと、真崎くんが少し眉を寄せた。「あの⋯⋯、血の匂いが⋯⋯」
「あ、ごめんごめん。まじで? すごい嗅覚やな」
「一体、なにが⋯⋯」
「真崎くん、見たんやろ」一拍の間。「『アダム』とかいう男のこと」
「はい」真崎くんが頷く。「朱雀、とも名乗っていましたが」
「朱雀?」
「或る男につけられた、呪いのような名だと⋯⋯」
「ふぅん⋯⋯」唇の端を軽く嚙む。「ほんま、厄介な名前つけてくれよったな」
「なにが起こっているんですか? 狭霧は、狭霧は一体⋯⋯、どういうことなんですか?」真崎くんが、顔を歪めた。「家が守りたかったものは、狭霧じゃなくて、朱雀って男のほうだったんですか?」
「さあ⋯⋯」立ち上がる。真崎くんも、それに合わせて緩慢に顔を持ち上げた。「ほんま、どっちなんやろな」