第八章 大雪

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 真崎くんをなんとかソファに座らせて、今日起こった出来事をあらかた聞き出した。奥のソファに横たわっている弟は、しかし、いまだ起きる気配を見せない。
「それで、交代するために眠ったままっちゅうこと?」
「はい」真崎くんは、両膝の上で拳を握り締めた。「半日経っても目覚めなければ、無理やり起こしてほしい、と頼まれました」
「そうか⋯⋯」腕を組み、ソファにもたれて天井を見上げる。
 控室がノックされた。真崎くんが素早く立ち上がる。同時に扉が開いた。スーツ姿の真墨が立っており、片手に持っていた缶コーヒーをふたつ、此方に向かって放り投げた。真崎くんが両手で、それぞれの缶コーヒーを危なげなく受け取ったことを確認した真墨は、一歩も此方に入室することなく無言で扉を閉めた。
 真崎くんがひとつ、缶コーヒーを手渡してきた。
 礼を言い、プルタブを開ける。真崎くんもソファに座り直したが、缶コーヒーは片手で握ったままだ。
「狭霧に伝える?」缶に口をつけてから訊ねる。
「さあ⋯⋯」真崎くんは弱々しく首を振った。「正直、オレも、まだ受け止め切れていません。狭霧の中に、朱雀って男がいて、そいつがアダムで、それで、そのアダムってのは、もともと、近衛さんが逃げてきた直継っていう組織が初めて作った人工生命体で⋯⋯」
「うーん、たしかに、フルコースって感じ」
「どうして狭霧の中にいるんですか? そもそも、狭霧の中にいるって、どういう状況なんですか?」
「そうやなあ」軽く数度、缶を揺らした。「俺もあんまりよくわかってないけど⋯⋯、昔、その『アダム』と『イヴ』って奴らを中心に、なんかでっかい戦争みたいな揉めごとがあったらしいわ」
「戦争⋯⋯、ですか」
「まあ、そりゃあ、この現代でも一から生命を作るなんて、できてへんわけやからな。その技術が本物らしい、なんて知れたら、そりゃあ、その技術を狙ってとか、人間が人間を作るなんて冒涜や、とかいうて、戦争のひとつやふたつくらいは起こるやろ」
「それは、なんとなくわかります」
「うん、それで、その戦争が終わったあとに、負けたか勝ったかはよう知らんけど、直継は大陸からこっちに逃げてきたわけよ」
「負けたか勝ったかわからないんですか?」
「あんまり文献残ってなくてなあ」缶に口をつけて傾ける。「多分、直継が負けたんやろな。なんせ、当時の『アダム』を他国に奪われとるくらいやし」
「他国って⋯⋯」真崎くんが眉を顰めた。「日本のことですか?」
「そう。日本が回収した。日本に亡命してきた直継に対して、先手を打った形やな。でも、どうにかして『アダム』を奪ったはええけど、処分しても、どういうわけか、うまいこと処分ができん。何回やっても復活する」
「復活?」
「何回燃やしても、その炎の中でまた復活したらしい。まあ、これは、ほぼほぼ伝説みたいなもんやけど。名前のとおりっちゅうわけや」自虐的な笑みが零れてしまい、咄嗟に、もう一度微笑みを取り繕った。「あ、ごめんごめん⋯⋯、そんで、対応に困った当時のお偉いさんが、問題丸ごと放り投げた先が久遠寺。復活してまうなら、完全に封印してしまえばええんちゃうかってことで、封印を代々続けてきたんやけど⋯⋯」
「それが、また、復活してしまったのが⋯⋯、狭霧?」
 彼の問いかけに、慎重に頷く。
 真崎くんは、不審げな、或いは困ったような表情で此方を見つめた。
「でも、どうして狭霧が朱雀だってわかったんですか? 生まれた直後に、流暢に喋り始めたとか?」
「狭霧を産んですぐ、母さんが亡くなった」缶を煽り、コーヒーを一気に飲み干す。「それも、言い伝えどおりやったらしいで。『アダム』の器になる人間が生まれるときは、母胎の四肢が裂けるやろう、いうてな」
「事故じゃ、なかったんですか」
「うん」
「そう、ですか」真崎くんは伏し目がちに呟いた。
「狭霧はあくまで、器に過ぎん。『アダム』っていう本体か、もしくは、中核の部分を内包するためのな。やから、正確には、狭霧は『アダム』の生まれ変わりとは言わん。斎ちゃんの場合は、本体から器が分離した子やから、順序が逆やけど」
「その『アダム』は、どこに封印していたんですか?」
「ほら⋯⋯、あるやろ。狭霧が昔、開けてもうた蔵」
「え?」真崎くんは弾かれたように後ろを振り向いた。ソファで穏やかな寝息をたてている狭霧の顔を十秒ほど見つめてから、ゆっくりと此方に向き直る。
「今は狭霧の中やけど」真崎くんに向けて、微笑みかける。「俺の弟、封印クラッシャなんかな」
「狭霧の中に朱雀が入って、復活したのって⋯⋯、三年前に、蔵を開けたときだったんですか」
「そう。この寺は、蔵の中でアダムを封じ続けてきた。直継がいちばんに欲しがっとったもんやから、とにかく守りを固めなあかんようになって、それが、今の久遠家と名護家の関係性、それから、方丈の在り方に繋がるわけやけど⋯⋯」
「あの⋯⋯、開かずの蔵の中に、朱雀がいたってことですか?」
「もちろん躰はないから、高濃度の魔力に乗せる形でな。簡単に言えば、疑似的な魂状態、みたいな感じか。それを、全部、取り込んで⋯⋯、あんなもん、普通、浴びたら躰の形なんて保ってられへんで」
「魔力⋯⋯」彼の声は、僅かに震えている。
「ん?」
「じゃあ、まさか、知ってたんですか」
「なにを?」
「狭霧の、目のこと⋯⋯」
「正確には知らんかったよ」
「でも、それじゃあ、あの家は、」真崎くんが、立ち上がった。「狭霧が苦しんでるって知ってて、わけわかんねえことになって、あんなに変わっちまった狭霧が、ひとりで、誰にも言えずにいたことを、皆、知ってて知らねえ振りしてたっていうのかよ」
「真崎くん」
「ふざけんな、」
「頼む、」
「オレは、狭霧を守るためだって信じて、信じて、あんなこと、呑み込んで、見殺しにして、そんな、」
「真崎くん、」
「オレはいったい、なんのために命令聞いたと思ってんだ!」真崎くんの手にあった缶コーヒーが投げ捨てられた。次の瞬間、勢いよく胸倉を掴まれる。自分の手から缶が抜け落ちて、床で数度跳ね返る音がした。飲み干しておいて良かった、と場違いなほど呑気な思考が頭の端を過ぎる。「あいつのためだって、信じて、こんなこと、オレは、続けて、」
「ごめんな」
 嗚咽交じりに、何度か強く此方を揺さぶりながら俯いていたが、やがて、真崎くんは静かに手を離した。
「申し訳ありません」項垂れたまま、低い声で呟いた。
「しばらく、こっちにおるから」ソファから立ち上がり、床に落ちた缶を拾った。「また連絡する」
「はい」真崎くんが頭を下げる。「失礼します」
 控室を出て扉を閉める。
 廊下には、少し前に確認したときと同じ場所に、真墨が立っていた。此方の姿を確認すると、真墨が歩き出す。自分も、そのすぐ後ろをついて歩いた。
「ホテルって、今から予約できる?」
「家出る前に予約した」
「さすが、持つべきものは真墨さま」
「あんたって、結局、なにがしたいの?」半歩前を歩く真墨は、此方を振り向かずに言った。「自分から悪役買って出て、あの子らに事実を伝えて、家の保護下から引き摺り出そうって魂胆?」
「もしかして、盗み聞きしとった?」
「嫌でも聞こえるわよ、あんな叫び声」
「やっぱり?」自分の乾いた笑い声だけが、夜の冷たい廊下に虚しく消える。「聞こえてへんふりしてくれると思っとったんやけどなあ」
「だから、ずっとそうしてあげてるじゃない」
「なあ⋯⋯」
「なに?」
「俺が言うのもなんやけど、真崎くんに、挨拶せんで良かったん?」
「ええ」真墨の表情は、一度も伺えないままだった。