第八章 大雪

 
     1
 
 やがて、境内は控えめな騒めきを取り戻した。忙しなく行き交う僧侶たちの中から此方に近づいてきた住職は、もうすぐ救急車が到着する、と焦りを押し殺したような声で報告した。
「彼らはなぜ、この境内に侵入できたのでしょうか?」住職が言葉を続けた。「そう簡単に破られる結界ではなかったはずですが⋯⋯」
「恐らく、彼女を連れていたからだろう」狭霧が答える。
 オレと住職は、揃ってそちらに顔を向けた。
「彼女には魔臓がない。体内で生成される魔力を保有していない、ということは、魔術が働きかけるべき元となるものがないということだ。作用される物質がなければ、結界も意味を成さない。そして、その僅かな綻びを突くことは、そう難しいことではないだろう」
 狭霧は彼女の傍に立つと、静かに屈み、片膝をついた。
 腕を伸ばす。
 指の背で、彼女の頬を撫でる。
あお」狭霧の声で、狭霧ではない誰かが呟いている。その声を、辛うじて聞き取ることができた。「君はいつもそうだな。他人のためにばかり、無茶をする⋯⋯」
「彼女は、助かるのですか?」住職が訊ねた。
「非常に弱いが、息はある」狭霧は正確な発声で答えながら、未練のない動作でその場に立ち上がった。「私が彼女と⋯⋯、青衣と出会うまで、彼女の躰にかけられているという呪いは発動しているはずだ。呪いが達成されるまでは、その呪いによって生かされる。だが、魔術が作用しない彼女に必ずしもその原則が適用されるかどうか⋯⋯」
「それは⋯⋯」
「魔術による治癒を施してやることもできない今、正直、五分五分といったところだろう」狭霧は、もう片方の手で握っていた眼球を確認する。「右目は完全に壊死している。此方の回復は絶望的だ」
「お前は、誰だ?」
 オレの問いかけに、狭霧は顔を此方に向けた。
 見事な赤い瞳が、目許にかかる前髪から覗いている。
「朱雀という」男が名乗った。「かつて、第二のアダムとイヴとして、直継の手によって青衣と共に生み出された完全人工生命体【アダム】だ」
「第二の、アダムと⋯⋯、イヴ?」
「旧約聖書において、アダムとは、神が創造した初めての人類だ。対する我々は、人類が初めて創造した生命体。それを意味するために、私と彼女には、それぞれアダムとイヴという呼び名が与えられている」
「朱雀じゃなかったのか?」
「そちらは⋯⋯」男は一瞬、伏し目がちになったが、すぐにまた赤い瞳で此方を見た。「或る男が、私につけた名前だ。青衣という名も彼がつけた。なにを考えているのかよくわからない男だったが、この名はある意味で、彼の呪いとも言える。直継に対する、彼なりの嫌がらせだったのかもしれないな」
「狭霧はどうなる? 大体、どういう仕組みだ? 実家が隠してたのは⋯⋯、命張ってまで守ろうとしたものは、狭霧じゃなくて、お前の存在ほうだったってことか?」
「躰にかかる負荷を抑えるためにも、彼女が病院に到着したあとで『彼』を戻すべきだと考えている。大丈夫⋯⋯、今はまだ、心配ない。私が『彼』の自我を浸食する可能性は低いと見ていい。私という自我よりも、『彼』という自我のほうが剛性が高いのだろう」男は、ひとつめの問い以外に対してはなにも答えなかった。
 救急車のサイレンの音が近づいてきて、オレは口を噤む。サイレンはすぐ傍で止まり、数人の救急隊員が此方に向かって走ってきた。
 オレは錫杖を持ったまま、鞄を取りに客間に戻った。客間では、数人の男がパイプ椅子を片づけているところだった。オレと狭霧の荷物は丁重に脇に置かれている。荷物を回収したあと、廊下に出て錫杖を解体し、もう一度外に出た。近衛さんが救急車に運び込まれたのを確認し、大破した壁について住職に何度も頭を下げながら、ひどく憂鬱な気分になっていった。
 狭霧が無事に元に戻るのか、近衛さんが助かるのか、助かったとしても、オレたちの記憶の処理はどうなるのか。壁の修繕について、実家への報告について、これからについて。次々と、自分に待ち受けている事項が浮かぶ。そのたびに、自分の足取りが重くなっていくようだった。
「これから、どうされますか?」住職が穏やかな声で訊ねた。「病院に向かわれるのですか? それとも、家に戻られますか?」
「実家から、なにか、連絡などは⋯⋯」
「あちらでも少々問題があったようで、どうやら立て込んでいるようでした。ひとまず待機を、とのことでしたが⋯⋯」
「病院に向かおう」朱雀が言った。「少なくとも、貴方たちの住居であるマンションよりは安全なはずだ。それに、ただじっと家で待機しているのでは、『彼』は納得しないだろう」
「それもそうですね」住職は頷いた。「此処もしばらく、修繕に時間がかかります。安心な場所であると断言はできません。車を回しましょうか?」
「大丈夫です。バイクがあるので⋯⋯」バイクを停めた駐車場のほうを指差した。
 修繕は必ず此方がどうにかする、と再び住職に頭を何度か下げてから、朱雀を連れて駐車場に向かった。荷物を収納し、ヘルメットを渡してバイクを走らせる。病院に到着して受付に事情を話すと、隣の病棟にある集中治療部に案内された。
 廊下には、個室の病床が一列に並んでいる。個室の壁が大きな窓になっており、中の様子を廊下から見ることができた。案内されたのは、六床のうちのひとつ。窓越しに、ベッドに横たわる近衛さんと、忙しなく治療をおこなう医師や看護師の姿が見えた。
 隣に立つ、朱雀を見た。
 彼は赤い目で、瞬きもせず、じっと窓の中を見つめている。
 だが、すぐに息を短く吐き出すと、その赤い目を此方に向けた。
「無事を祈っている」それだけを告げて、朱雀は素早く周囲を見渡した。
 廊下を挟んだ向かい側に控室があった。此方も、廊下に面した壁が大きな窓になっている。中にはソファやテーブルが見えたが無人のようだ。
 朱雀はそちらに向かって歩き、控室の扉を静かにスライドした。自分も、その後ろをついて歩く。扉を閉めて控室の中に向き直ると、朱雀はソファに腰かけたところだった。
「私は今から、しばらく此処で眠る。次に目を覚ましたときには、『彼』が戻っているはずだ。その間、申し訳ないが、此処にいてもらえるだろうか」
「どのくらいかかる?」
「初めてのことだ。正確な所要時間はわからないが⋯⋯」朱雀は一度、軽く目を閉じた。「数時間はかかるかもしれない。だが、二十四時間を超えることはないと思う」
「じゃあ、数時間経っても起きなかったら、叩き起こしていいのか、それ」
「どうなるかはわからない。なんの保障もできないが、そうだな⋯⋯、半日経っても起きなければ、一度叩き起こしてみてほしい」
「オレは、どうすればいい」
 朱雀はじっと此方を見つめた。
 なにか問いかけておかなければ、と思った。今のうちに、得られる情報を搔き集めておきたかった。けれど、口から飛び出したのは、自分でも驚くほど意味のない弱音だった。
「君は、どうしたい?」朱雀が言った。
「オレは⋯⋯」
「君がなにを成すのか、その決定権を握るのは君だけだ。それを忘れてはいけない。他者に全てを委ねた気でいても、結局はそれも、放棄する、と君自身が選択したことに他ならない。私は、私の選択によって形成される。私を選択へと導くものは、願いであり、祈りであり、後悔であり、怒りでもある。その全てと向き合うことだ」朱雀はそこで、初めて、ほんの少しだけ笑った。「幸運を祈る」