第八章 大雪

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 数分後、盛大に洟を啜りながらようやく躰を離した久遠狭霧は、名護真崎の胸倉を乱雑に掴むと、彼の制服のシャツで目許を拭い始めた。
「あっ、おいてめ、人の服で鼻水拭くな、」
「まだ鼻水は拭いてない」
「だから拭くなって、いや、ちょ、うわ、汚ねえ!」
「汚いとか言うな」
「ハンカチくらい持ってんだろ馬鹿!」
「は? ハンカチは鼻かむもんちゃうやろ」
「他人の服でかむもんでもねえわ!」
 青年ふたりのやりとりは、騒がしくも心地よく病室を満たした。そのためか、それとも無理に腕を動かしたためか、急激に瞼が重くなる。軟らかな眠気だった。何度か緩慢に目を瞬かせて、ようやく、少女は自分が微睡んでいるのだと知る。
「嬢さん?」久遠狭霧が顔を近づけた。目許が少し赤く腫れている。「眠い?」
「泣き疲れとかも、あるかも」名護真崎が言った。
「ごめん、目ェ覚めたばっかりやのに、無茶さしたな」
 青年の睫毛に、微小な水滴が残っているのが見えた。一度小さく洟を啜ってから、彼が目を細めて微笑みの形を浮かべると、その水滴が揺れ、融合し、重力に従いながら消滅した。
「夜まで此処におる。明日も来るから」遠のく意識の中で、その言葉を聴く。「大丈夫。おやすみ」
 次に少女が目を開けると、此方を覗き込んでいる私服姿の青年と目が合った。
「おはよう」パーカーの紐が、少女の頭上で揺れている。「まだ寝とっていいで」
「今⋯⋯、何時?」
「えっと⋯⋯」久遠狭霧は背筋を伸ばし、腕時計を確認した。「朝の九時半」
「そう⋯⋯」
 シーツを掴み、少しずつ引っ張り上げる。顔の半分を覆ったところで、控えめにドアが開けられ、その隙間から名護真崎が姿を見せた。
「なあ、あんまりお嬢の顔ガン見してやんなよ⋯⋯、って、あ、起きた?」
「うん」青年が答える。「今さっき」
「あ、ほら、やっぱり顔隠してんじゃん」
「えっ?」青年の焦った顔が近づけられた。「ごめん、あ、いやでも、全然、大丈夫、変な顔とかしてなかったし⋯⋯」
「最低⋯⋯」少女は、シーツを目許まで引き上げてから呟いた。
「え、最低?」
「そりゃあ、男にずっと寝顔見られてたとか、普通に嫌だろ」
「いや、あの、ごめん、そういうつもりじゃなかったんやけど、その⋯⋯」
「今のお前じゃ、なに言っても墓穴掘るぜ」笑いを含んだ名護真崎の声が、頭上から聞こえてくる。「お嬢、おはようございます。今から看護師さん呼んできますね。着替えは横に置いておくんで、それ使ってください」
 シーツから目だけを出して見上げると、やはり私服を着た名護真崎が立っていた。ラフなTシャツに薄手のニットカーディガンを羽織っている。明るい茶髪は、珍しく下ろされていた。
「まだ風呂には入れないけど、頭洗って、躰も拭いてくれるってさ」
「そう」もう一度、シーツを頭まで被る。「ありがとう」
「じゃ、呼んできます。狭霧のことも連れ出すんで、ご安心ください」
「あ、ちょお待てって、おい!」
 足音が遠ざかり、すぐに扉が閉まる音がした。シーツから顔を出すと、先ほどまでふたりがいたはずの部屋には誰もいない。途端に静かになった病室は、突然、広々と感じられた。
 その後、ドアがノックされ、看護師の女性が入室した。看護師は昨日と同じ女性で、今日も愛想の良い笑みを浮かべている。すぐに、昨日よりも詳しいバイタルチェックがおこなわれた。
「問題ありませんね」記録を終えた看護師は、此方に笑みを向ける。「じゃあ早速、頭も洗って、躰も拭いていきましょう。きっと、さっぱりすると思いますよ」
 看護師はベッド脇のリモコンを操作し、ベッドの上体を起こした。
 水を使用しないというドライシャンプーで髪を洗い、丁寧にブラッシングされる。その後、熱く濡らされたタオルでしっかりと頭全体を拭かれ、さらにタオル越しにマッサージを受けた。
 洗髪が終わると、看護師は手際よく服を脱がせて、全身のガーゼを一枚ずつ剥がしていった。自分の躰に纏わりついていた湿度まで剥がされたかのように、外気に触れた箇所が涼しい。全身や顔を濡れたタオルで拭き、口もすすいだ。
 目と頭部には、新しいガーゼやネットを装着し直した。着替えの入院着も真新しい。名護真崎が置いていった紙袋から現れた下着がやけに大きいことだけが少々気になったものの、ようやく息をつくことができ、非常に快適だった。
「ベッドは起こしたままにしておきますか? それとも、寝かせておく?」
「起こしたままでかまいません。本当に、ありがとうございました」
「いえいえ⋯⋯、気持ち良かったでしょう? 今日は、先生の診察と問診もあるけど⋯⋯、とにかく、今日も一日ゆっくりしてね」点滴の用意をしながら、看護師が言った。「そういえば、あの男の子たちは、お友達?」
「ええ⋯⋯、まあ⋯⋯」この関係性を的確に示す言葉を、自分は知らない。「私も、彼らの友人であれたなら、良いのですけれど⋯⋯」
「お友達じゃなかったら逆にびっくりよ。毎日毎日通い詰めで、今日なんて、朝一番に大荷物持ってやってきたんだから」
「大荷物?」
「あら、聞いてない? あの子たち、今日と明日は此処に泊まるからって、簡易ベッドの貸出し手続きしてたわよ」
 少女の顔を見て、看護師は可笑しそうに小さく噴き出した。「そりゃそうよね、驚いちゃうわよね」とひとりで頷き、くすくすと笑っている。
 看護師は少し窓を開けていくと、お大事に、と言い残して退室した。入れ違いに、ふたりが入室する。
「さっぱりした?」名護真崎が人懐っこい笑みを浮かべて訊ねた。
「ええ。ありがとう」ひとつ、少女は気になっていたことを口にする。「あの⋯⋯、この着替えのことなのだけど⋯⋯」
「ん?」青年は目を軽く見開くと、失礼します、と一言断りを入れて、下着のパッケージを確認した。「うわ、ほんとだ、Lサイズ」
「え?」久遠狭霧が、青年の背後から覗き込んだ。「ごめん、全然見んと買ったから⋯⋯」
「いや、でもLサイズはないな。確認しなかったオレもオレだけど⋯⋯」
「だって、なんか、俺が女性用の下着買うって⋯⋯、なんか⋯⋯、はたから見たらヤバい奴やんって思ったら、恥ずかしくて、その、ちゃんと見てませんでした⋯⋯」
「病院の購買で買ってんだから、入院患者のお使いかなって思ってくれるだろ」
「べつにかまわないわ。ベッドから動けるわけでもないのだし⋯⋯、わざわざ買ってきてくださったものだもの。それより貴方たち、本当に泊まるつもりなの?」
「あれ?」名護真崎が反応した。「もうバレてんの?」
「先ほどの看護師さんが、教えてくださいました」
「バレてんなら仕方ないか。そうそう、お嬢が寝たあと、土日は泊まろうぜって話になったんだよな。正直、オレらのマンションよりこっちにいたほうが安全らしいし、お嬢のことも気になるしさ。それに、ひとりでずっとこんなとこにいるの、暇だろうし⋯⋯、っていうのは建前で、狭霧が片時も離れたくないってもう昨日からうるさくて、」
「いやちょお、そんなこと言うてへんって、阿呆、変な理由付け加えんな!」
「あら⋯⋯、私だって同じ気持ちだったのに。否定されてしまうだなんて、残念だわ」
「お前ら、元気になった途端、揃いも揃って揶揄いやがって⋯⋯」
 少女と名護真崎が同時に笑みを深めると、久遠狭霧は拗ねたように眉を寄せて顔を顰めた。
「それにしても、私って、随分信用がないのね。つまり、私の見張りってことでしょう?」
「そりゃもう、とびきりの前科が三回もあるわけですから」名護真崎は少女に顔を向けて、眉を器用に持ち上げる。「一回目が飛び降り、二回目が囮、三回目がベッドからの飛び降り」
「あら。なんのことかしら」
「とぼけたって無駄っすよお」
「そうやぞ」視線を逸らしたまま、久遠狭霧が呟く。「絶対に、そんなこと、二度とさせへんからな」
 その言葉に、少女が名護真崎と顔を合わせて微笑むと、それを横目で見た青年はますます不機嫌そうな表情を浮かべた。