第九章 小寒

 
     1/君島操
 
 足を引き摺る。
 咳き込むたびに、痺れるような痛みが散った。咄嗟に腹を抱えて蹲る。躰を折り曲げて息を整えるが、額に滲む汗が止まる気配はいまだない。
「くそッ⋯⋯」地面に向けて吐き捨てた。
 歯を食いしばって立ち上がる。
 寺の敷地を抜け出して、近くに待機させていた車の後部座席に乗り込んだ。目的地を述べると、車は迷いなく発進する。
「先ほど、アルバートさま本人から直々にご連絡がありました」発車してまもなく、運転手が言った。「本日午後八時、別邸にお越しになるように、とのことでしたが⋯⋯、いかがなさいますか?」
「アルバート?」唐突な名に、思わず顔を上げてバックミラーに目を向ける。ミラー越しに運転手と目が合った。「いや⋯⋯、特に事前の連絡もなかったはずだが。そもそも、いつの間に来日していた?」
「極秘の来日とだけ伺っております」
「まったく⋯⋯」目を閉じた。「今頃、イギリスでは大騒動になっているだろうな」
 やがて、車は緩やかな傾斜と不安定な振動を繰り返したのち、静かに停止した。
 目を開けて、車を降りる。
「此処でお待ちしております」
 運転手に声をかけられ、車のドアを閉める手を一度止めた。
「いや。至急、採血管の用意を頼む」
「採血管ですか?」
 運転手の問いかけを無視して、ドアを閉める。
 己の正面、医療研究センターの敷地内で最も高い建物を見上げた。
 建物に侵入し、堂々と直進してエレベータに乗る。最上階で降り、階段を上って屋上の扉の前に立つ。
 扉を開けると、鋭く凍てついた風が顔面に叩きつけられた。
 屋上を歩き、中央で立ち止まる。
 殺風景な屋上庭園と、寂れた遠い青空。
 痛覚のコントロールができない。治癒を試みるも、体内を循環する魔力の動きが異様に鈍い。たった一発でこの有様だ。あの魔弾は、しかし、ただ物理的な衝撃を与えるものではなかったということだろう。
 此方を直線的に補足していた、男の赤い瞳を思い出す。
 膨張し、破裂するような魔力の圧力。
 知っている。
 あの瞳の色を、あの圧力を、自分は知っている。
 この屋上で見た、呪いを放つ彼女と同じ。
 高坂八束。
「問題ありません。魔力活性の低下は一時的なものです。しばらくの休養で、正常に戻るでしょう」
 背後で、足音が止まった。
 振り返る。背後に立つ人物と向き合った。
 直継みつぐ。
 此方を見据えている。
 表情はない。
「舐められたものだな」顔を歪めて女を睨んだ。「加減をして、慈悲でもくれてやったつもりだとでも?」
「封印が解けたのね」女は、数段飛ばしで会話を進める。
「君のお望みどおり、復活したというわけだ。お前たちが待ちわびていた男⋯⋯、アダムと言ったか?」
「不用意にその名を口にしないで」
「今更だろう。たとえあの男が魔臓を保有し、魔術を使用できるとはいえ⋯⋯」
「概念が持つ力は、未知数です」
「まあ⋯⋯、そうだろうな」嘲笑を唇の端に浮かべてみせた。「あれもまた、呪われた男らしい」
「どういうこと?」
「話はそれだけか?」女の疑問を無視して訊ねた。
「青衣はいた?」
「さあな」顔を横に向け、鼻を鳴らす。
「消滅しているという確証はない、ということ?」
「近衛斎は、高坂八束の存在を覚えていた。そもそも、三年前に彼女とすれ違ったとき⋯⋯」一瞬、目を閉じる。「高坂八束が鋏を喉に突き立てて自害した直後か。そのとき、近衛斎は碧眼だった。まあ、順当に推測すれば、高坂八束になんらかの魔術をしかけたのはイヴのほうであり、その反動で、イヴは深い階層で眠っている⋯⋯、疑似封印状態にある、といったところか」
「人格の交代で瞳の色が変わるのですか?」
「変わっていたよ。少なくとも、久遠狭霧のほうはな」
 そう、と直継は頷くと、唇を引き締めた。
 直継に伝えていない事柄はいくつかあった。たとえば、高坂八束も呪いを発動する際に瞳の色が変わっていたこと。それから、近衛斎を前にしたときに覚えた僅かな違和感。
 三年前、直継の研究所から現れて自分とすれ違った彼女と、今の彼女は別人だという確信にも似た予感が、自分の中にはたしかにあった。なんの予備動作もなく出現した、言葉にできない、非常に直感的な印象だった。
 イヴは生きている。当然だ。
 でなければ、今も尚、近衛斎の躰に呪いが発動しているはずがない。『誰かに会う』という呪いをかけられて、彼女は久遠狭霧と出会っている。それでも、近衛斎には呪いが発動したままだ。つまり、出会うべき対象はそちらではない。イヴとアダムが出会わなければ、近衛斎の身に眠る呪いは終わらない。
 高坂八束の呪いは必ず発動する。それは、魔臓を持たない近衛斎に呪術が作用している時点で明らかだ。呪いとは、対象者の魔力に作用する魔術ではない。世界に働きかけ、世界がその結末に向けて動かなければならない。この世で起こるすべての選択と事象の確率をコントロールし、決定することで、望む事象の一点にそれらを収束させる必要がある。
 だからこそ、高坂八束は異端だったのだ。
 高坂八束が呪った。であれば、必ずふたりは出会う。器の人格である近衛斎と久遠狭霧は出会った。あとは、彼らの中に眠るという遺物が同時に目を覚ますだけ。
 伊勢残に近衛斎の躰を切り刻ませた。それでも、彼女の息は止まらなかった。
 まだ、イヴはあの中で息づいている。
「君の目的は、アダムとイヴのふたりを表に引き摺りだして、儀式を執り行うことか?」
「わたしの目的ではなく、これは、直継の⋯⋯、わたしのお父さまの悲願です」
「近衛斎が伊勢あれの手で切り刻まれても息絶えなかった以上、イヴが消滅しているという確証はない。彼女を処分することもできず、新たにイヴを生み出すこともできないとなれば、やはり、彼女を叩き起こすしかない、ということになるが」
「もしそうだとすれば、外部の手で封印された彼と違って、彼女の場合は、自主的に眠りに就いている、と考えて良いでしょう。たしかに⋯⋯、厄介であることは認めます。けれど、呪いがかけられている以上、今回のように、なにかのきっかけで彼女も目覚める可能性は高いわ」
「そのときは、ぜひ俺も同行しよう」直継の横を通り過ぎる。屋上の出入口に向かって歩いた。「彼女には、なんとしてでも聞かなければならないことがある」
「高坂八束のこと?」背中に声をかけられた。「貴方の目的は、その答えを聞くことなの? それとも、その答えを知って、高坂八束を取り戻したいの?」
「俺は、彼女の蘇りを望んでいるわけではない」
 屋上の扉の前に立つ。
 ドアノブを見た。
「彼女が屋上から飛び降りようとしたことは事実だ。彼女の体質、その特異性であれば、解放されたい、或いは、早く楽になりたい、という気持ちは常に少なからずあったのだろう。だが、実際のところ、高坂先輩がどう思っていたか、本当はどうしたかったのか⋯⋯、俺は知らない。彼女の答えを知ることはもうできない」
「貴方の、その、彼女への執着はなんなのですか?」
「執着?」後ろを振り返る。
「自覚がないのね」直継はそこで、初めて唇を僅かに湾曲させた。
「なにか、勘違いをしているようだが⋯⋯」
 顔を正面に戻す。
 無骨で寂れた、屋上の、重い扉。
「俺は知りたいだけだ。わからないことをわからないまま放置できない。理解の及ばない事象、いまだ明らかになっていない事柄を、自分の力で解明したい。それはごく自然な欲求だろう。ただの知識欲だ」
 ドアノブを握りしめて、扉を開けた。
 振り返らない。
 もう二度と、此処には来ない。
 女はなにかを呟いていた。けれど、それが此方に届く前に扉は閉まり、そしてそのまま、沈黙した。