第八章 大雪

     5/名護真崎

 狭霧の携帯に病院から電話がかかってきた日の放課後、オレたちは近衛さんの家を訪ねた。
 昼休みの教室に電子音が鳴り響いた瞬間、最悪の想定が頭を過ぎった。だが、電話の内容は、彼女の意識が戻った、という報告だった。ただし、意識が戻るや否や、彼女は錯乱状態に陥ったらしい。今は鎮静剤を投与して眠っており、遅くても明日までにはもう一度目を覚ます、とのことだった。その電話を受けて、狭霧は項垂れながら一度大きく息を吐き出したあと、顔を上げ、彼女の着替えを取りに行こう、と提案してきた。自分はそれに対して頷くことしかできなかったが、思えば、随分と久しぶりのコミュニケーションだった。
 同時に、自分の携帯にも、一件のメッセージが届いた。
 久遠陽桐の文字を確認して、狭霧からは見えない位置で画面をタップし、メッセージを開く。簡潔に一言、用事を終えたので今から実家に戻る、という旨の連絡だった。
 午後の授業を終えて、彼女の家に向かう。羽張神社の敷地は閑散としていて、人気がない。
 インターホンを鳴らすと、ひとりの女性が玄関の扉を開けて現れた。
「え?」
 狭霧の声に、咄嗟にそちらを振り返る。狭霧は自分の一歩後ろに立っていたが、驚いたようにその女性を見つめていた。前に向き直り、もう一度女性を確認する。長い黒髪や白い肌はたしかに近衛さんを想起させたかもしれないが、それにしては長身で、それにしては、整っているもののあまり印象に残らない顔立ちだった。
「いかがされましたか?」抑揚のない声で、女性は狭霧に訊ねた。
「あの⋯⋯」狭霧は目を細めると、少し眉を寄せた。「人間じゃ、ないんですか」
「は?」
 女性が答えるよりも先に、思わず、素っ頓狂な声をあげてしまった。しかし、女性は顔色ひとつ変えることなく「はい」と返事をする。
「私は、近衛家現当主の式神です。おふたりには、護法童子のようなもの、と申し上げたほうが馴染みがありますか?」
「護法童子⋯⋯、って、あれ、伝説じゃねえのかよ⋯⋯」
 だが、魔術というものが存在し、完全に人間の手によって作られた人間が存在し、ひとりの人間の中にもうひとりの人間がいる、という現実を実体験として知っている以上、この程度の伝説であればたしかに実現可能だろう、と妙に納得している自分がいる。
「本日は、いかがされましたか?」
「あの⋯⋯」狭霧が一歩、前に出た。「近衛の⋯⋯、近衛さんの着替えを、病院に持っていこうと⋯⋯」
「病院に?」
「はい。しばらく入院することになりそうなので⋯⋯」
「大変申し訳ありません」女性はゆっくりと頭を下げた。「お嬢さまの私物は、処分しました」
「え、処分?」
「お嬢さまにそう申しつけられました。近衛家も、お嬢さまの案件から手をお離しになりましたので、もう、此方に戻られることはできません。そもそも、お嬢さまが生き延び、あまつさえ、敵の手に渡らなかったことは、近衛家にとっても、まったくの予定外でした。ですが、おふたりがお嬢さまについて覚えておられる、ということは⋯⋯」
「それ、どういう意味ですか?」狭霧はますます眉を寄せ、女性に詰め寄った。
「申し訳ありません。私の一存でお話することはできません」
「なんで、」
「すみません」会話を遮り、狭霧よりも前に出る。「本当に、すべて処分されましたか?」
「いいえ」女性は伏し目がちに首を緩やかに振った。「中へどうぞ」
 女性の案内で、リビングに通される。狭霧が座るのを確認してから自分も席に着いたが、狭霧は茫然としたまま机を見つめていた。
 女性はオレたちに茶を出したあと、一度奥の扉に消えた。しばらくして現れた彼女の手には、見覚えのある服が一式。
「こちらの服です」
 白色のニットと、細かいプリーツが特徴的な明るい茶色のロングスカート。たしか、彼女に姉との買い物を勧めたときに、彼女が購入して帰ってきた、初めての私服だったはずだ。
「処分する前日⋯⋯、お嬢さまはこの服を着て、鏡の前に立っておられました。私がいることに気づいておられなかったのか、服に触れながら、鏡の前に立つお嬢さまのお顔が忘れられず⋯⋯、どうしても、処分することができませんでした」
 彼女は頭を下げてから、その服を手際よく畳むと、いっしょに持っていた紙袋の中に入れて此方に差し出してきた。
「現金も、袋の中に入れております」
「現金、ですか?」
「近衛家から支給されていたものですが、お嬢さまは、ほとんど食事もされず、物を買うことがありませんでしたので」
「いや、でも⋯⋯」
「私には必要のないものです。どうぞ、治療代の足しになれば⋯⋯」
 横目で狭霧を確認すると、ぼんやりとその紙袋を見つめていた。仕方がないので、差し出された紙袋を受け取る。
「ありがとうございます」紙袋を、できるだけ丁寧に床に置く。「あの⋯⋯、良かったんですか。これ、近衛家の判断に背く行為だったのでは⋯⋯」
「私は主人の式神ですが、一定の自発的行為、或いは、一定の自己判断が許されております。これは、私個人による行動であり、その点について、名護さまがご心配されることはなにひとつありません。お心遣いに感謝いたします」
「そう、ですか」
「ですが、此処に戻られることはできません。どうかご容赦ください」
「わかりました」
 結局、狭霧は一言も話さなかった。
 家を出て、病院に向かう。その間も終始無言だった。病院に到着して、受付に声をかけると、集中治療部から個室に移動したとのことだった。特別病棟の十八階、廊下の突き当たりにあるいつもの個室だ。
 病室に寄る前に、狭霧は病院の購買に足を運んだ。ほとんどろくに商品を見ずに入院患者向けに売られている女性用の下着を数着引っ掴み、レジで代金を支払う。紙袋を少し広げて差し出すと、狭霧はその中に購入したものを入れた。
 エレベータに乗って、十八階に到着する。廊下の手前には暗証番号を入れる扉があり、狭霧が入力した。廊下をまっすぐに進み、突き当たりの部屋に入る。まず、テーブルとソファ、冷蔵庫やテレビなどが置かれた、応接スペースか、もしくはリビングのような広々とした部屋がある。そこから、ベッドが置かれた部屋やバスルームにそれぞれ繋がっている。ホテルといっても差し支えない、いわゆるVIPルームだった。彼女の躰が国家機密レベルの技術の結晶であり、彼女の細胞を提供する対価として治療費や入院費を全額免除されていることを踏まえれば、妥当な対応に思われた。
 狭霧が扉を開けて、病室に足を踏み入れた。大きなベッドで、近衛さんが眠っている。窓の外には、夕焼けが広がっていた。
 狭霧はベッドの傍に立ち、近衛さんの顔を覗き込む。
 顔の半分は、やはり白いガーゼやネットで覆われていた。ただでさえ細い躰は、不健康に細く弱々しい。よく見ると、シーツの上で伸ばされた腕にも、いたるところに処置のあとが見られる。規則正しい穏やかな寝息をたてていることだけが、救いだった。
 狭霧は傍にあった椅子に腰かけると、彼女の片手をそっと掬い上げた。
 両手で包むようにして、彼女の手を握る。
 面会時間が終わるまで狭霧はずっとそうしていたが、その日、彼女が目を開けることはなかった。