第九章 小寒

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 狭霧の言葉に、久遠照雪は僅かに眉を寄せた。しかし、すぐに表情を取り繕い、ゆっくりと頷く。
「言ってみろ」
「守る対象に、近衛を入れてほしい」
 重い沈黙が降りた。
 照雪さまも、父も、なにも言わない。
「近衛を囮にして、見殺しにして、俺が文句言う前に記憶消して、初めから全部なかったことにしようとしたのも⋯⋯、俺の封印が解けてまうことだけは、なんとしてでも阻止せなあかんかったから、なんやろ」狭霧は沈黙を打ち破り、言葉を続ける。「でも、そのきっかけになりそうなもんを徹底的に排除してきた結果、こうなった。たしかに、こうなったのは近衛と俺が出会ったことが原因で、その原因は、近衛が受けたっていう呪いを、近衛自身が受け入れてもうたからかもしれん。けど、今さら近衛をどうこうしたところで、もうどうにもならんことは、父さんらがいちばんようわかっとるはずやろ」
「捨身、という言葉がある」
 照雪さまの言葉に、思わず躰が僅かに動いた。
 父の視線が、瞬時に此方へ向けられる。その視線ひとつで、自分は動きを止めなければならなかった。
 口を噤み、狭霧の背中を見つめることしかできない。
「身を捨てる、と書く。身命を捨てて仏に供養すること。命を犠牲に他の生物を救うことだ。これは、他の存在を救うために自己の身を布施する修行であり、自殺とは厳密に区分される。古来より、重要なものとして評価された」
「だから、近衛にそれを推奨したんや、とでも言うつもりか?」狭霧の声が、怒りによって一段階低くなる。「そうするのが当たり前やとか、受け入れろとか、そんなことほざく気ちゃうやろな」
「ならばお前も、犠牲なくして全てを得る、などとほざく気ではないだろう」
「これ以上は、もうなんの意味もない犠牲やって言うとるねん」
「私たちが、その条件を呑まないと答えたら、お前はどうするつもりだ?」
「俺は⋯⋯」一瞬の沈黙。「この家を、出ていく」
 照雪さまは、目を閉じてその答えを聴いた。
「このままなんにも教えてもらえんくても、お前はなにもするなって言われても、それが最善なら、俺はそのとおり、どれだけそれが不服でも、なにも聞かずに、なにもせずに、ただ守られることに甘んじる。父さんが、この寺が、ずっと守ってきたものが俺の中にある。それを閉じ込めたままにするために、間違っても直継の手に渡らんようにするために、この家はずっと守ってきたんやろ。やから⋯⋯」狭霧はその場で頭を深く下げた。「あいつのこと、守る対象にも入れんでいい。わざわざ守ったりせんでいい。なにもせんでいい。無視してくれたらいい。俺たちが、近衛といっしょにおるって選ぶことを、認めてくれるだけでいい」
「彼女と共にいるかぎり、お前の身が危険に晒されるとしても?」
「近衛がおってもおらんくても、危険なことに変わりはない」
「彼女と共にいることで、お前以外の人間が、危険に晒され、その命を落とすとしても?」
「その責任は、」狭霧が声を張り上げた。「俺と、真崎が負います」
「狭霧、」
「そうならんように、俺にできることはなんでもする。どんなことでも受け入れる。俺が血ィ流して助かるならそうする、絶対誰にも死んでほしくない、やから、」
「もういい」久遠照雪が、音もなく立ち上がった。「なんでも聞く、と言ったな」
 一拍の間。
「はい」
「では、顔を上げて歯を食いしばれ」
 狭霧は無言のまま、ゆっくりと上体を起こす。
 照雪さまは狭霧の目の前に移動すると、その場に膝をついた。
 次の瞬間、彼は片腕を振りかぶり、
 平手打ちとは思えないほど重い打撃音が、部屋の中を鋭く振動させる。平手打ちの衝撃で顔面から畳に叩きつけられた狭霧は、低く呻きながら数度咳き込んだ。
「明日、家を出ていくように」
 照雪さまが立ち上がる。
 畳の上で蹲ったまま咳き込む狭霧の背中を見下ろして、彼は淡々と言った。
「それから、マンションに戻り荷物を全て纏めること。ただし、マンションの契約を解除する必要はない。荷物を持って、お前たちは末寺に移りなさい。冬休みが明けてからについては、後日連絡する」
 自分の父が立ち上がり、襖を開けた。
 照雪さまは、部屋を出ようとしたところで、一度立ち止まる。
「狭霧。午前一時半に、本堂まで来なさい」
 彼は狭霧の返事を聞く前に、部屋をあとにした。
 父もその後ろに続き、襖を閉める。
 物音が聞こえなくなったことを確認して、自分はようやく動くことができた。
「おい、狭霧、大丈夫か?」
「俺の顔⋯⋯、半分くらい消滅してへん?」狭霧はようやく顔を少し持ち上げた。「あかん、まじで痛い⋯⋯」
「すんげえ音してたもんな」顔を覗き込んで確認してみると、打たれた頬が、既に赤く腫れ始めていた。「とりあえず、早めに冷やしといたほうがいいだろ。起き上がれるか?」
「大丈夫」呻きながら狭霧は上体を起こし、立ち上がる。「なあ、末寺って、あそこやんな。お前といっしょに逃げ込んだ、今、修繕の手伝いしとる⋯⋯」
「そうそう。お嬢囮計画のときに、中継地点にしろって言われてた寺だよ。とりあえず、あの寺に逃げ込むようにって言われてたから⋯⋯、まあ、此処の傘下に入ってる寺だから、マンションにいるよりは安全なんだろうぜ」
「ちょうど良かったかもしれん」狭霧は眉を寄せながら言った。「あそこの修繕、朝だけじゃなくて、ちゃんと手伝いたかったし」
「そういや、本堂に呼び出されてたけど、心当たりは?」
「多分、この腕ちゃう」狭霧が自分の左腕を少し持ち上げる。「前に、結界の強化するとか言うて、腕の梵字にごにょごにょ言うとったんも本堂やったし⋯⋯」
「なら、大丈夫そうだな」
「オッケー出たってことでいいんか?」
「引っ叩かれた理由がよくわかんねえけど、多分」
「もしかして、夏に嬢さんを平手打ちしたツケが回ってきたかな⋯⋯」
「そうかも」狭霧の背中を軽く押す。「とにかく、早く冷やしにいくぞ。すんげえ腫れ始めてる」
 狭霧を自室に向かわせて、自分は台所に足を運んだ。冷蔵庫から氷を拝借してビニル袋に詰め、袋の口を縛りながら狭霧の部屋を訪ねる。氷詰めの袋をタオルで巻いた即席の氷嚢を狭霧に渡したあとは、しばらく居座ることにした。
「大丈夫か?」
「腹減った⋯⋯」
「思ったより元気だな、お前」
「まだ実感できてないだけやと思う」狭霧は目を閉じた。「どうなるかな、これから」
「な、明日って、オレたち、昼飯食わせてもらえると思う?」
「無理ちゃう⋯⋯」
「やっぱり? じゃあ、昼前には家出るか」
「ごめんな」狭霧は目を閉じたまま、俯いている。
「それ、なにに対する謝罪かわかんねえけど、そもそもオレは、ご主人さまの無茶ぶりに付き合ってるっつうより、オレとお前の考えが一致したからいっしょにいるだけで、べつに、無理してお前に付いたわけじゃねえんだわ」
「うん⋯⋯」
「おお、よしよし」わざとらしい声を出し、狭霧の頭を撫で回す。「痛かったなあ」
「なんやねん」狭霧はようやく目を開けると、少し顔を持ち上げて笑った。「急にうざなるやん」
「元気づけてやってんだろ」
「もっと他に方法あったやろ」
「あんだよ、意外とこれで元気になるくせに」
「悪かったな」
 珍しく認めた狭霧は、拗ねたように顔を顰めたが、すぐに口許を弛めて笑った。