第九章 小寒

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 翌日、オレたちはまず寺に顔を出し、修繕作業を手伝った。以前、狭霧を連れて逃げ込んだ寺だ。あの日、得体の知れない男ふたりを寺に誘き寄せてしまっただけでなく、主に金髪碧眼の男によって敷地内にあったさまざまなものが破壊された。狭霧を連れていくことは事前に予定されていたとはいえ、責任は自分たちにある。狭霧の意識が戻ってからは、ふたりで毎朝寺を訪ね、主に力仕事の手伝いを続けていた。
 今日も毎朝の日課となりつつある修繕の手伝いを終え、少し住職と話をしたあと、バイクで病院に向かう。
 寝室を覗き込むと、近衛さんはまだ眠っていた。
 それを確認してから、寝室の扉を閉めてリビングに腰を下ろす。
「お嬢は置いていくってことでいいんだよな?」
「置いていくっていうか⋯⋯、連れていくわけにはいかんやろ」ソファに座り、狭霧が答える。「次こそなにされるかわかったもんじゃない」
「でも、オレたちふたりだけで行ったところで、強硬手段で拘束されたりとか、無理やり記憶消されちまうかもしれねえじゃん」
「それはない」
「なんで?」
「それができるんやったら、初めからしとる」
「でも、お前がやろうとしてることが、引き金になる可能性だってある」
「それは否定せんけど⋯⋯」狭霧が頷いた。「でも俺は、その条件さえ呑めば家の言うことなんでも聞くって言いにいくだけや。それに、俺の封印が一回解けてるって時点で、家も慎重にならざるを得んやろ」
「まあ⋯⋯、それもそうだな。こんだけ神経質に封印を続けてきて、親父たちは、お嬢を見殺しにしてまでお前の封印が解けることを恐れてたんだから、自分から、朱雀を閉じ込めてる封印を刺激するわけはないか」
「ていうか、これ、俺も魔術使えるってことなんかな」
「使えるっていうか、使ってたけど」
「正直、護身術として習っときたい気はする」
「それなら、魔術よりテコンドー習ったほうがいんじゃね?」
「テコンドー?」狭霧は怪訝そうに眉を寄せた。「え、なんで?」
「だってお前、普段は殴る派のくせに、あのときはめちゃくちゃ蹴り技出してたろ。だから、実はそっちに適性あんのかなと思って」
「俺の足が遠距離攻撃できるくらい長かったら考えたかもしれんけど」
「化け物だろそれ」
「そうやな⋯⋯」狭霧はそこで、一度黙り込んだ。
 少し視線を下げ、眉を寄せている。
「なんか気になることでもあるか?」
「ある⋯⋯」狭霧が呟く。「あるんやけど、朱雀が表に出とるときに気になったことがあったってだけで、俺自身はあんまり覚えてないというか⋯⋯、俺が思い出すのを拒否られてるって感じがする」
「ああ⋯⋯、お前が朱雀を意識する、っていうか、なんつうの、アクセス? することで、朱雀が表に出やすくなっちまう⋯⋯、みたいな?」
「そうやな」狭霧が頷いた。「それはあると思う」
「なあ。本当に、今日出発でいいのか?」
「できるだけ早めに行って、できるだけ早めに戻ってきたい」
「わかった」
「じゃあ俺、ちょっと院長と話してくる」狭霧は腕時計を確認しながら立ち上がった。「嬢さんのこと、よろしく」
 狭霧が病室を出るまで見送ってから、近衛さんが眠っている寝室に足を運んだ。音を立てないようにして扉を開け、ベッドの傍まで歩く。近衛さんは顔の半分近くまでシーツを被り、ほぼ俯せに近い体勢で横を向いていた。ほとんどガーゼや包帯しか見えなかったが、シーツはゆっくりと規則的に上下している。
 ベッドを回り込み、窓際に立って窓の外を眺める。
 しばらくして、シーツの擦れる音がした。
 ベッドに顔を向けると、近衛さんがシーツで顔の半分を覆い隠したまま、ちょうど此方に顔を向けたところだった。
「ごめん、起こしちまったか?」
「いえ⋯⋯」
「水でも飲みます?」
「お願いできるかしら」
「了解」
 水を準備して寝室に戻り、スイッチを押してベッドを起こす。腕を持ち上げられない彼女のために、ストローを刺してグラスを手渡した。
「ありがとう」近衛さんは一度水を飲んでから、部屋を見た。「久遠くんは?」
「院長んとこでお話中」
「なにかあったの?」
「いや⋯⋯、ちょっと頼みごとを、な」ベッド脇の椅子に腰かける。「オレら、今日実家に戻るわ」
「え?」近衛さんは少し目を見開いた。
 その後、俯くようにしてゆっくりと視線を下げる。
「片時も離れたくないって、仰ったくせに」拗ねたような声。
 その様子が珍しくて、思わず笑ってしまう。一方で、オレの反応が気に食わなかったのか、彼女は僅かに口許を歪めた。
「すぐ戻ってくる」
「本当に、今日出発するの?」
「できるだけ早めに行って、できるだけ早めに戻ってきたいからって、狭霧が」
「そう⋯⋯」
「大丈夫、この病院は中立だから、簡単に手は出せないって聞いてるし。二、三日空けちまうけど、オレたちがいなくても⋯⋯」
「自分の身の安全については、心配していないわ」近衛さんが言った。「そうではなくて⋯⋯」
「オレたちも、大丈夫」
「信じていないわけじゃないの、でも⋯⋯」彼女は緩やかに首を振った。「無理をしないで」
「無理?」
「私が久遠寺と距離を置きたいとか、逃げたい、とか⋯⋯、久遠寺も、私との縁を断ち切りたいと考えているからといって、貴方たちまでもが断ち切る必要はないわ。貴方たちにとっては、生まれ育った場所で、貴方たちを大切に守り育ててくれた家族だもの。私は貴方たちに、家族や、思い出や、思いそのものを捨ててほしくてあんなことを言ってしまったわけじゃないわ」
「少なくとも、オレたちは家と縁を切ろうなんて思ってませんよ。実家の出方次第では、どうなるかわかりませんけど」
「それは⋯⋯」
「親不孝者だよな」小さく笑って、息を零す。「オレらがどれだけ恵まれてたか、わかってるつもりではいるんだ。すげえ大事にしてもらってきたって、わかってる。それは、血の繋がりとか、お役目とか、義務感とか、そういうのじゃなくて⋯⋯、ただ、家族として、本当に大事にされてきたと思う。家のやってることだって、オレらを⋯⋯、いや、狭霧を守るためなんだって、頭では理解してんだ。わかってるんだけど、でもさ。全部を全部、はいそうですか、じゃあ仕方ないですね、なんて呑み込めないのも事実だろ。たしかに、こんなものは子どもの癇癪かもしれねえし、今まで何代もかけて、何人もの命をかけて守ってきたものを一瞬にしてパアにすることかもしれねえよ。どうなるかはわかんねえし、それが結局、最悪の結果を招く可能性だってある。それでも⋯⋯、親父たちが自分の代で全部のしがらみを断ち切るってんなら、オレたちからも断ち切ってやらなきゃ、親父たちは、ずっとそれに囚われたままだろ」
「親不孝者なんかじゃないわ」
 そう言って、近衛さんが顔を上げた。
 静かな視線が、此方を捉えている。
「ありがとな」
 近衛さんは一度目を伏せて、再び此方を見ると、軟らかく微笑んだ。