第九章 小寒

     4/久遠狭霧

 気が付くと、そこは人工の光が白く壁を照らす殺風景な空間だった。
 まったく見覚えがない場所に、自分は立っている。階段を上る途中だったらしい。斜め前には男がいた。黒い髪。黒い服。そのまま視線を下げていくと、男の足が見える。どういうわけか、階段から数センチ浮かび上がっているらしい。
「浮いとる」
 口にしたつもりはなかったが、前にいた男は驚いたように此方を振り返った。
 僅かに見開かれた目は、冗談のように鮮やかな紫色をしている。耳許で、瞳と同じ色をした紫色の石が揺れた。
「おや⋯⋯」線の細い男はそう呟くと、一転してわざとらしい笑みを浮かべた。「此処は、貴方が来るべき場所ではありませんよ」
「でも、帰り方がわからん」
「そうですねえ。そんなこと、僕に訊ねられてもさっぱりなのですが⋯⋯」男は躰の正面を此方に向けると、芝居がかった動作で肩を竦める。「では、そもそも、貴方と彼を区別するものとはなんでしょう。躰は同一。であれば、やはり、記憶の有無でしょうか? それとも、経験の差異? ですが、その記憶を形成する神経細胞も、その神経細胞が時に内包し時に放出する電気パルスも、全て貴方の躰を構成するものではありませんか? たとえば、貴方の友人が不幸にも事故に遭い、記憶を失ったとして、貴方は、記憶喪失になったその男を、貴方と長らく苦楽を共にした友人のままだと認識しますか? それとも、別人だと認識しますか? 記憶を引き出すことができなくなったことで、その人をその人たらしめていた証明は消え失せますか? 貴方が貴方として生き、こうして積み上げてきた経験の不確かさ、脆弱さ、相対性、境界線の曖昧さ⋯⋯、それらを、確からしいと錯覚させているもののひとつはなにかと問われれば、やはり、ラベリングであると答えるしかありません。これもまた、催眠療法か、呪いのようなものですけれど⋯⋯、ああ、話が長くなってしまいましたね。申し訳ありません。これが、僕という名が持つ性質のようです。ええ、ですから、貴方も、どうかご自分の名を思い出されますよう」
「誰?」
「僕ですか?」男は微笑んだ。「僕は、亡霊のようなものです。もっとも、今、この場では、貴方のほうが亡霊に当たるわけですけれど」
「俺は⋯⋯」
「狭霧」突然、真崎の声が聞こえた。「狭霧?」
 先ほどまで鮮明に見えていたはずの景色は一瞬にして霧散した。思い出すよりも早く、その映像が速いスピードで遠ざかっていく。
 重い瞼を持ち上げると、目の前には真崎がいた。顔は、もちろん歪んでいる。なにか、僅かな違和感が頭に甘く引っかかったが、忘却の勢いと共にあっけなく流れ、それは簡単に消滅した。
「眠いならソファで寝たほうがいいぜ。じゃないと、躰、痛めるぞ」
「なんか、変な夢見とった」小気味よい音を立てながら背中を伸ばす。座面だけの丸い椅子に座り、壁にもたれかかった体勢で眠っていたらしい。
 今日は終業式だった。
 終業式は午前中に終わり、俺たちはそのまま病院に直行した。簡単に昼食を摂ったあと、此処で彼女の様子を見ているうちに睡魔に襲われて今に至る。
 すぐ傍のベッドでは、近衛が眠っていた。換気のためにと少し開けた窓から緩やかに入る風が、カーテンや近衛の髪を静かに揺らしている。近衛はいつも、仰向けで微動だにせず浅い眠りを繰り返していたが、今は珍しく横を向いている。シーツにうずまるようにして顔を此方に向け、幽かに寝息をたてていた。
「なんちゅうか⋯⋯、無防備やな」
「野生の猫が懐いてきた感じ」
「ああ⋯⋯」いくつか共通項が思い浮かび、自ずと口角が持ち上がった。「ちょっとわかる気がする」
 十分ほど真崎と会話していると、近衛が目を覚ました。しばらくシーツの中で身動いだあと、いつもより少し眠たげな目でぼんやりと此方を見つめた。片方の目は、今もまだ白いガーゼやネットに覆われている。
「おはよう。なんか飲む?」
「お水を⋯⋯」
 真崎が部屋を出る。すぐに、水の入ったペットボトルとグラスを手に戻ってきた。自分も、スイッチを押してベッドの上体を起こす。近衛は何度か目を擦り、ベッドの動きに合わせて躰を起こした。
 真崎が水を注いだグラスを差し出す。ストローが刺さっていた。近衛が両手で受け取り、ストローを咥える。
「髪、だいぶ伸びましたね」真崎は自身の額あたりを指差した。
「ええ。あまり頓着していなかったけれど⋯⋯、たしかに、ちょっと邪魔ね」
「オレで良ければ切りますよ」
「貴方、そんなこともできるの?」
「前髪を整えるくらいなら。狭霧のもやってるし」
「じゃあ、ついでに俺も切ってもらおかな」自分の前髪を摘まみ上げる。
「病室に鋏って持ち込んでいいのか?」
「あ、たしかに、あかんかも。危険物扱いとかになりそう」
「じゃあ、お嬢の散髪は退院してからか」
「ありがとう」
 真崎に微笑みかけてから、近衛はもう一口水を飲んだ。
 そこで、彼女が起きたら訊ねてみようと考えていたことを思い出す。
「そういえば、嬢さんでも食えるかなと思って、プリン買ってきとるねん。ちょっと高いやつ。食べる?」
「それじゃあ⋯⋯、少しだけ」
「わかった」
 椅子から立ち上がり、一度寝室を出てリビングの冷蔵庫を開けた。瓶詰めの小さなプリンとプラスチックのスプーンを取り、再び寝室に戻る。ベッド近くの椅子に腰かけ直し、包装を外して蓋を開けた。
「甘い匂いがするわ」
「うん。高いやつやからな」
「そうなの?」
「美味しいと思いますよ」真崎が答えた。
 個包装されたビニル袋から取り出したスプーンで、プリンを掬った。片手に持った瓶と、慎重に持ち上げたスプーンを彼女に近づける。少し顎を持ち上げて促すと、近衛は躊躇いがちに口を薄く開けた。
 プリンを乗せたプラスチック製の薄いスプーンを、近衛の口の中に差し込む。彼女が咥えたスプーンを引き抜くとき、釣られて少し顎を持ち上げる彼女の様子は、小動物の餌付けを連想させた。
「美味い?」
 そう訊ねると、近衛はプリンを呑み込んでから頷いた。
「お医者さまって大袈裟だわ」
「大袈裟?」プリンを掬いながら訊き返す。「なにが?」
「わざわざ手伝っていただくほどのことではないはずなのだけれど」
「お前が無理して二回も躰動かしたせいで、こちとら院長から三回目はないぞって脅されとるんや。大人しいせえ」
「二回って、いつといつ?」
「嬢さんの意識が戻ったときと、真崎の顔触るために腕持ち上げたとき」
「あのときは⋯⋯、べつに無理をして動かしたつもりはないのよ」近衛は伏し目がちに言った。「それに、動かせないほどの痛みじゃないわ。嘘をついているわけじゃないの。だから⋯⋯」
「お前が今さら隠しとるとか、嘘ついとるとかは思ってないけど、嬢さんの大丈夫は往々にして大丈夫じゃないねん」スプーンを持ち上げて近衛の口許に近づけた。「せやから、嫌かもしれんけど、我慢してくれ」
「無理させているのは此方ではなくて?」
「先、食べて」
 そう言ってスプーンを唇に触れさせると、近衛は観念した様子で口を開け、二口目を食べた。
「で? 無理ってなに?」
「これ以上の説明は名護くんに託します」
「あ、ちょっと、オレ今、いい感じに気配消してたのに⋯⋯」真崎が笑う。「な、狭霧、オレにも一口ちょうだい」
「お前の口どこにあんねん」
 真崎の口だと思った場所にスプーンを差し込もうとすると、真崎に手首を掴まれた。
「いや、オレに対して雑すぎるだろ」真崎は可笑しそうに呟く。「どこに突っ込もうとしてんだよ」
 次の瞬間、真崎がスプーンを咥えてプリンを食べたのがわかった。予想より少し下の位置に口があったらしい。
 手首が解放された。
 なにも言い返せないまま自分もプリンを一口食べると、近衛が幽かに息を零して笑った。