第九章 小寒

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「そんな量のエネルギィ的なものが、今、俺の躰の中に全部入っとるってこと?」話を聞いて、思わず眉を寄せる。「やから、俺、こんなに歪んどるんか?」
「そうなるな」真崎が頷く。
「なんか、嫌やな。欲の塊みたいなもん詰め込まれてるとか⋯⋯」
「欲っつうかさ⋯⋯、どっちかって言うと、生命力、みたいな感じしねえ?」
「生命力?」
「うーん、いや、ちょっと違うかも」真崎は腕を組み、少し唸った。「でも、魔臓を持ってるのが生物だけだから、生物だけが歪んで視えてるってのは、中らずと雖も遠からず、って感じがすんだよな。それほど見当は外れてねえんだろうけど、どんぴしゃ正解じゃない感じ。だってほら、欲ってのもさ、物欲とか金が欲しいとか、名誉や権力、っていう欲じゃなくて、お前もさっき言ってたけど、もっと根本的なものって感じがするだろ」
「命そのもの、みたいな?」
「どっちかと言えば、そのほうがしっくりくる気がするな。まあ、特に理由とかはないんだけどさ」
「そういえば、その儀式の内容って、嬢さん知っとる?」
「いいえ」近衛が頭を振った。「禁忌を破る類の儀式だということ以外は⋯⋯」
「親父たちは知ってそうだったけど」真崎が言った。「絶対許せねえって、何度も言ってたし」
「ろくでもないことは、たしかやろうけど」
「そうね」近衛は膝の上で両手の指を組んだ。「でも、貴方の封印が解けてしまったということはもう、間違いなく、その儀式に巻き込まれてしまうことになるわ」
 静寂の一瞬。
 風が吹く。
「でも、今のところは大丈夫みたいですよ」真崎が穏やかな口調で話しかけた。「朱雀って奴も、交代するのはこれっきり、みたいなこと言ってたし。二度と自分を表に引き摺り出そうとするなよ、みたいなこと、言ってたよな?」
「そうそう⋯⋯、俺の自我がやけにしっかりしとるから、一時的な交代なら侵食する心配はないとかなんとか、たしか、俺の口がそんなこと喋ってた気がする」
「彼らが表に出てしまえば、私たちのような器側の意識は、本来、到底耐えられないの」近衛は緩やかに二、三度、頭を横に振った。「だって、彼女は⋯⋯、私という人格を侵食することを恐れたからこそ、頑なに表に出ることを拒んでいたのよ。それも、あの頃の人格わたしが、まだ芽のようなもので、僅かな余白部分で生き永らえることができるだけの自我だったから、彼女が表に出ないという選択ができただけで⋯⋯、でも、貴方たちは、どちらも根を張った大木のようなもの。そんなものが一度でも入れ替わってしまえば、それは、もう⋯⋯」
 近衛が言い淀む。
 その先は自明だった。
「でも、実際、俺は無事やったで」
「そんなこと、」近衛は弾かれたように顔を持ち上げたが、すぐに視線を逸らして俯く。「気休めにも、ならない」
「そうかもしれん。けど、なにしたってもう止められへんくて、防がれへんことなんやったとしても、なにもせずにただそのときを待ち続けるっちゅうわけにはいかんやろ」できるだけ、強い口調にならないよう注意を払って話しかける。「どうせ来るなら、来たときにどうにかできるように、今できることを考えたい。地震みたいなもんやろ。俺らには止めようがなくて、事前には防がれへんけど、地震が起こってもうたときに備えて、防災訓練して、逃げる練習して、少しでも生き延びられるようにって、対策するのといっしょで⋯⋯、そら、もしかしたら、いろいろ考えた結果、どうしようもないって結論になるかもしれん。でも、諦めたくはない。足掻けるなら、足掻けるまで足掻きたい。それは、お前といっしょに、や」
「久遠くんは⋯⋯」眉を下げて、近衛は怯えるような目で此方を見た。「私のせいだって、思わないの?」
「そら⋯⋯、たとえば、もし嬢さんが、俺のこと陥れるために綿密に計画しとったんやとしたら、嬢さんのせいやんけって思うかもしれんけど。そうじゃないんやろ? 俺のためとかほざいて、二回も三回も命投げやがったような嬢さんに悪意がなかったってことは、もう充分わかっとる。大体、包丁で刺されたからって、包丁のこと恨んだりはせんやろ」
「貴方が今までにくれた言葉を、否定したいわけじゃないの」
「うん」
「でも、今もまだ、やっぱり⋯⋯」近衛は少し俯き、目を閉じた。「研究所にいた頃⋯⋯、十五年間、毎朝目が覚めるといつも、いつも⋯⋯、お前じゃない、いい加減にしてくれ、って⋯⋯」
「お前じゃない?」近衛の言葉を繰り返して、訊ねる。
「そう。当然よね。だからいつも、朝、目が覚めて、ああ、今日も私のままだって⋯⋯、ずっと、そう思っていたの。でも、今は違う。目が覚めて、私であることを確認して、安心して、でも同時に、いつか目が覚めたらあの薄暗い場所に逆戻りしていて、処分当日で、ガス室の前に立っているんじゃないかって、そんなこと、あの場所にいた頃は、思いもしなかったのに⋯⋯」組んだ両手の指に、近衛がさらに力を入れた。「いつ私じゃなくなるか⋯⋯、いつ、私が二度と目を覚ませなくなるかって、怖くて、たまらなくなる」
「⋯⋯、うん」
「いつも、誰かに死を望まれてきた。私がいなくなったほうが、本当は、皆、喜んでくれるのよ。わかってる、そんなことは、わかってるのに⋯⋯」近衛が吸った息の音が、聞こえる。
「逃げたい、」
 それは、風に搔き消されてしまいそうなほど、幽かな声だった。
「ごめんなさい、でも、貴方が、あんなにも簡単に許してしまうから」俯く近衛の声は、震えていた。「貴方が、いとも簡単に、私を救ってしまうから⋯⋯」
 その細い躰が、あまりにも脆くて、頼りなくて、
 けれど、今はまだ。
 彼女に手を差し出すために、やらなければならないことがある。
「だから、貴方の言葉を信じたいのに、受け止められなくて、自分を許せないまま、だけど、私、」
「うん」
「もうこれ以上、否定されたく、ない」
 膝にかけた毛布の上に涙を落とす近衛を、正面から見つめる。
 その言葉を聞く前から、決意は既に固まっていた。