第九章 小寒

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 午後八時。
 案内を受けて応接間に足を踏み入れると、椅子に腰かけていた男が音もなく立ち上がった。
「夜分にお時間いただきありがとうございます、ロード」男が言った。正確な発声のクイーンズイングリッシュだった。
「此方こそ、お時間いただき感謝しています。ユア・グレイス」
「相変わらずですね」男が微笑む。「お元気そうでなによりです」
 アルバート・エルガー。
 獅子を想起させる黄金の髪に、生命の力強さを体現する若草色の瞳。柔和な物腰に対して精悍な顔立ちをしたその男は、二十代にも関わらず、魔術界における四大貴族に数えられる一族の若き当主であり、西洋魔術協会の幹部を務めている。
 エルガー家とラングマン家は、イギリスとフランスという国境こそあれど、昔から友好関係にあった。家の付き合いとして、幼少の頃から、何度か男と会ったことがある。互いに打算的なものとはいえ、おおむね良好な関係にあると言って差し支えない。ふたりのときには、言葉や態度を崩すことも許されている。
「どうぞ、おかけください」
「失礼する」広い応接間には、椅子が二脚と、椅子に対して妙に小さい机が一脚。用意されていた椅子に腰かけると、向かいに立つ男もその場で自然に腰かけた。「時間は?」
「十五分確保しています。不充分でしたか?」
「いや、充分でしょう」一度、腕時計を確認した。既に一分が経過しようとしている。「ありがとうございます」
「早速ですが、貴方に頼まれていた文献を見つけました。私の先祖が厳重に保管していた論文です。たいへん貴重であり、我がエルガー一族が秘して背負うべきものであることは、当然、貴方もご理解いただけることと思います」男は脇に置いていた封筒を手に取り、此方に見せた。「ただし、貴方には権利があります。この論文の著者はヒューゴー・ダルシアク。ですが、直系のダルシアク一族は彼の代で断絶。その後、分家も次々と力を失い、廃絶しています。現在も存続している分家の中では、ラングマン、貴方がたが最も適切でしょう」
「分家と言っても、遠縁も遠縁だ。そもそも⋯⋯、俺は今、実家と距離を置いている身でな」
「貴方の名に誓う必要はありません」男が言った。「貴方の血に誓っていただきたい」
「血約魔術か?」
「当然です。私は貴方のために、無断でこの文献を、しかも国外に持ち出しているのですから。その程度の保険はお許しいただきたい」
「すまないが、此方も、代替手段を提示したい」
「なにか不都合でも?」
「実は先ほど、少々厄介な攻撃を受けた。ただの魔弾だと思っていたが、どうも、体内を循環する魔力の活性を著しく低下させるものらしい」
「それはたいへん興味深い」男は僅かに新緑の目を見開いた。「たしかに、魔力の反応速度を低下させたり、活性を阻害するすべがない、というわけではないとはいえ、それを魔弾に組み込むとは⋯⋯、ああ、もしかして、まだ本調子ではないのですか?」
「かなり回復はしたが、それより⋯⋯」ポケットから箱を取り出し、机の中央に置いた。「攻撃を受けたあと、己の血を冷凍保存した。此処に保存されているものは、魔力活性が低下した俺の魔力と、残留した魔弾の魔力だ。体液からの抽出は間に合っていない。魔力を移すほどの魔力が残されていなかったのでな」
「素晴らしい。間違いなく、正しい代替方法です」男が、堪えきれずに喉奥から笑みを零す。「いいでしょう。血約魔術に代わり、貴方の貴重なサンプルに免じて、文献の情報をお渡しいたします」
 男は封筒を此方に差し出した。俺が受け取ると、男は、先ほど此方が提出した小型の箱を回収する。
 封筒を開け、中身を取り出す。古い紙の感触と独特の匂い。
 慎重に紙束を捲り、素早く内容に目を通す。
「私も論文を拝読しました。著者は、公開について、当時の当主であったアーノルド・エルガーに全権を委ねていたようですが、彼が公開を禁止したため、未発表の論文となりました」男は足を組むと、少しリラックスしたように背中を椅子に預けた。「理論上記述可能な計算式が、実体として存在可能であることを示す証明のようですが、内容自体は非常に多岐に渡ります。論文というよりは、ヒューゴー・ダルシアクの手記、もしくは、覚書のようですね。いくつか気になる単語も見受けられました。貴方が望む情報が、この文献にあれば良いのですが」
「前言撤回だ。十五分では足りそうにもない」ページを捲りながら答える。「世の魔術師たちの、まさに垂涎の的だろうな」
「その血が貴方にも流れています」男は穏やかに微笑んだ。「見るべくして見る者、というのは、我々エルガーの人間ではなく、著者の血を引く貴方です。まるで、貴方の存在を予見していたようではありませんか?」
「まさか⋯⋯」口許が歪む。
 見るべくして見るものがこれを見る。
 たしかに、そう書かれている。
 そして、その下に書かれているものは、かつて魔術の三大区分のひとつでありながら、現在は再現不可能となった幻の魔術。
 召喚。
 或いは喚起。
 悪魔を喚び起こすもの。
「貴方はどう思われますか?」
「語るには、残り時間が少なすぎるな」
「そのとおりですね。でしたら、まずは、天使と悪魔が実体として存在する、という点についてはいかがでしょう。ああ⋯⋯、言葉にすると、どうしても滑稽ですね」
「天使は知らんが、まあ、悪魔くらいはいるだろう、と思っていた。そもそも、伝説にしては話の詳細が曖昧すぎる」
「伝説であれば、もう少し細部が作り込まれていたはずだ、ということですか?」
「それから、家系の適性魔術か。制御や操作に特化しているというのも、悪魔喚起の始祖に連なる家系だという話と矛盾はしない。悪魔を喚びだすだけでは意味がないからな。喚びだした悪魔をコントロールできてこそだろう」
「天使や悪魔と名づけられた高位存在、つまり、次元の往復が可能な理論上の計算式がかつて実体として存在していたのであれば、時空間の移動を始め、魔法と呼ばれていた領域は彼らの力によるものだったのでしょう。この論文では、世界の全ては宇宙平面上に記述されており、我々が実体と認識しているもの、そして我々自身もまた、投影された映像のようなものであると述べられています。その記述が法であり、世界の法とは、すなわち、現代で言うところの、世界の実体とされるコードにあたります。私たち魔術師が介入できるコードはごく一部であり、改変がたいへん厳しく制限されている。介入し改変する手順ひとつ、コードの一文字でも間違えるわけにはいきません。ですが、その手順、その制限を無視して介入し改変することができる存在が証明されるのであれば、理論上、世界の法に触れて改変する魔法使いも実在するということになりますね」
「そうか⋯⋯」途端に、頭の中で、神経細胞が瞬発的に熱を鋭く散らして駆け抜けた。「そうか、つまり⋯⋯、コードの削除が、可能だというのか」
「存在の忘却、とでも表現すべきでしょう」男は即座に、的確な相槌を打った。