第九章 小寒

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 三人でひとつの瓶詰めプリンを平らげたあと、久しぶりに病室の外に出てみよう、という話になった。
「でも、その恰好だとさすがに寒いか」真崎が近衛を見て言った。「着替えといたほうがいいかもな」
「服は⋯⋯」近衛が伏し目がちに呟く。
「捨てちまったから、もうない?」
「え?」真崎の言葉に、近衛は顔を上げた。
「嬢さんの家におった女の人から、聞いた」真崎に代わって自分が答える。「まあでも、嬢さんは全部捨てたって思っとるかもしれんけど」
「どういう意味?」
「こういう意味」真崎は紙袋を持っていた。
 ベッドサイドの棚に置き、真崎が中から服を取り出す。丁寧に畳まれた白いニットと明るい茶色のロングスカートを見て、近衛は驚いたように目を見開いた。
「これだけは、どうしても処分できなかったって」
「どうして⋯⋯」
「なあ」真崎は服を手に、腰を屈めて近衛と目線を合わせる。「近衛さんにとっては、ずっと否定され続けてきた人生だったかもしれねえけど。あんたの周りには、あんたのことをずっと心配してる人も、幸せでいてほしいって願ってる人も、実は結構いるんだぜ」
 真崎は、シーツの上に服を置いた。
 近衛が服に手を乗せて、少しずつ、指を動かす。
「馬鹿ね」近衛の片目から、あっけなく涙が零れた。「もう会えなくなってから、初めて知るなんて」
「また会えますよ」
「でも、私はもう、あの家には⋯⋯」
「あの家には帰れなくなっちまったとしても、会えるよ」
「不思議ね」近衛は粘性の低い涙を零しながら笑った。「貴方が言うと、そんな気がしてくるの」
 看護師を呼び、近衛の着替えを手伝ってほしいと頼むと、看護師は笑みを見せて喜んだ。外出をするなら、と看護師から手渡された膝かけ用の毛布を受け取り、車椅子を用意してしばらくリビングで待つ。数分後、看護師と入れ違いに俺たちは寝室に戻った。
 真崎が近衛の躰をベッドから抱き上げて、車椅子に座らせる。車椅子は自分が押した。
 病室を出て廊下を進み、エレベータに乗り込む。一階で降りたあと、中庭に向かって廊下をゆっくりと進んだ。穏やかな午後の日光が充満している。中庭は、特別病棟に入院している患者や病院関係者だけが立ち入ることができる。そのためか、辺りに人気はなく、心地の良い静寂が支配している。
「やっぱり、さすがに風が冷たいな」車椅子の隣を歩きながら、真崎が呟いた。
 少し強い風が吹く。車椅子に座る近衛の、細かい蛇腹のスカートが頼りなく揺れた。
「嬢さん、寒ない?」
「膝かけが温かいから、今は大丈夫」
 車椅子を押して中庭に出る。周囲には誰もいない。特別病棟の白い壁に囲まれた空間に、整備された緑が一面に広がっている。緩やかにカーブを描いた幅の広い煉瓦道を歩いたあと、俺たちは四阿あずまやで立ち止まった。
 車椅子に座ったままの近衛と向かい合い、ベンチに座る。
 風が、近衛の長い髪を何度も揺らす。手で押さえようにも腕を持ち上げることができず、もどかしそうに僅かに眉を寄せる姿を見てか、真崎がどこからか新品の髪ゴムを取り出した。
「そんなもん持ち歩いとんか?」
「前に病院の購買で買っといたんだよ」真崎は髪ゴムを手に近衛の後ろに立つと、彼女の髪を手で梳きながら纏め始めた。「簡単にしか纏められないけど」
「ありがとう。助かります」
「今まで、散髪とかどうしてたんすか」
いのりさん⋯⋯、彼女に、整えてもらっていました」
「へえ⋯⋯、あの式神の人っすよね?」
「ご存じだったの?」
「本人から聞きました。あ、いや、でもその前に、狭霧が言い当てたんだったかな」
「久遠くんが?」近衛が驚いたように目を見開いて此方を見た。
「そのことなんやけど⋯⋯」どのように話を切り出すべきか、少し悩む。僅かに鼓動が速度を増したのを感じた。「まだ、嬢さんに伝えてないことが、あって」
 真崎は髪を括り終え、近衛の背後から此方に移動する。
 近衛は真崎に礼を述べたあと、少し不安げな仕草で俺のほうに顔を向けた。
「まず、その式神のことやけど⋯⋯、実は、ちょっと前から、目が見えるようになったというか。いや、視界は歪んでるままなんやけど、その歪みがよく見えるようになった感じ、って言うんかな。多分、この歪みがなにかっていうのを、理解できたからかもしれんけど」
「魔力ではないの?」
「そう、魔力なんやけど⋯⋯、魔力の原型というか、本質というか。それが多分、欲、やねんな」
「欲?」
「感情よりももっと根本的なもの、って感じがする。極論やけど、たとえば、相手をどうにかして破滅させたいっていう欲が強ければ強いほど、相手を陥れるような強力な呪いになる⋯⋯、とか。これはあくまで推測やけど。そういう意味では、ちょっと言霊っぽいかな」
「でも、きっかけはなに?」近衛が少し首を傾げた。「理解できるようになったきっかけがある、ということよね?」
「朱雀」
「え?」近衛の目が、見開かれた。
「封印が、解けた」
 近衛は数秒間、無言のまま此方を見つめていた。徐々に、ゆっくりと伏し目がちになっていく。膝かけを手繰るようにして指先で握り締めると、近衛は一度、震えた息を吐き出した。
「それは⋯⋯、いつ?」
「嬢さんが、その⋯⋯、血塗れになって気ィ失っとる間に」
「彼と、交代したということ?」
「うん」
 近衛は眉間に力を入れ、硬く目を閉じた。
 彼女が罪悪感を抱くだろう、ということは想像がついていた。けれど、それでも、彼女に隠すことはできなかった。伝えた上で、これからのことを話し合いたかった。
「嬢さんは、直継っていう組織が、儀式のために生み出した成功体や⋯⋯、みたいなこと、たしか前に言うてたよな?」
 近衛が無言で小さく頷いた。
「俺の中には朱雀って男がおって、嬢さんの中にも誰かがおって⋯⋯、そんで、文化祭のときに俺が突然狙われたり、実家がここまでして守りを固めとったのも、直継が俺を狙ってるってことなんやろうけど⋯⋯、それって、俺が、っていうか朱雀が、その儀式ってのに必要やからってこと?」
「前に、陽桐さまが言ってたな」真崎が呟いた。「たしか、開かずの蔵の中にずっと朱雀を封じ込めてきたけど、朱雀は器を持ってねえから、高濃度の魔力に乗せてて、半ば魂みたいな⋯⋯、でも、お前が開けちまったから、今はお前の中にいる。あと、普通なら耐えられない魔力濃度なのに、さすが器なだけあるとかなんとか」
「じゃあ、蔵の中には、魔力の塊みたいなもんが溜め込んであったってこと?」浴びた魔を取り込んでしまったのだろう、と朱雀は歪んだ視界を見渡しながら呟いていた。
「過剰に浴びた魔の影響でお前の視界も歪んだ、ってことなんだろうな」
「なあ。そんな話、いつの間に兄貴から訊いとったん?」
「お前の交代中」
「ああ⋯⋯」
「私には魔臓がないけれど、それも、イヴ自体が魔臓を保有していなかったから、だと考えられているそうよ」近衛が静かな声で言った。「彼女を再現するために、それも必要なファクタだったのだとしたら⋯⋯、アダムは恐らくその対極。非常に高濃度な魔力を保有していたのでしょう」