第十章 大寒

 
     1/久遠陽桐
 
 研ぎ澄まされた冬の冷気は、祈りの静謐に似ている。
 本堂に足を踏み入れると、十数人の僧侶たちが護摩祈祷の準備を進めていた。自分の前を通り過ぎるたびに彼らは律儀に頭を小さく下げるが、彼らはあくまで黙々と、機敏な動作で、しかし急ぐことはなく、ただ淡々と準備を進めていく。
 静かな夜だった。
 静かな物音が、ときどき心地よく大気に触れるだけ。
 天井を見上げる。
 時の流れを圧縮した、厳かで重厚な暗闇が、高い天井に広がっている。
 彼らの邪魔にならないよう、本堂の壁際に寄った。出入口の近くに立ち、準備の様子をしばらく眺めていると、やがて、「あ、」と零された小さな声が聞こえた。
 そちらに顔を向けると、本堂の出入口から姿を見せた弟と目が合った。ただし、その視線は長い前髪に遮られながら、正確には僅かに外れている。片方の頬には大きな白い湿布が貼られていた。暗闇の中、その白は異様に浮き上がって見える。
「なんか、久しぶり⋯⋯、やな」弟が言った。
 自分は先日、集中治療部の控え室で眠っている弟を見たばかりだったが、たしかに、こうして顔を合わせて言葉を交わすのは、随分と久しぶりのことのように感じられた。
「そうやなあ」ゆっくりと表情を取り繕い、いつもどおり笑みを見せたが、今の弟には此方の顔など見えていないことを思い出す。「ていうか、その顔、どないしたん?」
 此方の問いに、狭霧は眉を顰めると露骨に視線を逸らした。昔から、自分の感情を伝えることは苦手なくせをして感情の発露自体はわかりやすい男だったが、今でもその芯はまったく変わっていないらしい。
「なんちゅうか、ちょっと罰が当たったというか⋯⋯」
「だいぶ腫れとるやん。なんの罰?」
「それも、ちょっと⋯⋯」
「ふぅん⋯⋯」
「今日、兄貴もやるん?」
「やるって、なにを?」
「これ」狭霧は自分の左腕を指差した。アダムを狭霧の躰の中に封じ込めるため、あの日、久遠寺が無理やり刻んだ、いくつかの梵字の位置だった。
「いや。俺は様子見に来ただけやから」
「そうなんや」特に変化のない声音で、弟が相槌を打つ。
「今日のは多分、一時間超えるで」
「そんな長いん?」狭霧は少し目を見開いた。「絶対途中で寝てまうやん、そんなん⋯⋯」
 そう呟きながら狭霧が逸らした視線の先を追って、自分も一度、顔を正面に向ける。暗闇の中に浮かび上がる本堂。横たわる深夜の沈黙。衣擦れの音。幽かな金属音。
 もう一度、弟に視線を戻す。
 自分とよく似た横顔。
 その瞳に、
 護摩壇の炎が揺れている⋯⋯、
 炎?
 そんなはずはない。
 父はいない。まだなにも始まっていない。炎は、そこに、ない。
 狭霧はどこかを、なにかを、一点を、見ている。
 微動だにせず。瞬きさえせずに。
 瞳の炎が揺れた。
 燃え上がる。
 炎の色。
 赤。
「狭霧!」
 静寂を打ち破る己の叫び声をどこか他人事のように捉えながら、狭霧の両肩を勢いよく掴み、此方に躰を無理やり向ける。
 狭霧は驚きに目を見開いていた。
 俺を見ている。
 黒い瞳。
「え、なに?」
 次の瞬間、躰の中心から吹き上がるような感触があった。
 弟の肩を押し飛ばすようにして、
 手を離し、
 咄嗟に口許を覆い、
 濡れた音。
 床に飛び散る飛沫の、音。
「陽桐さま!」誰かの叫び声。
 後ろに一歩下がり、
 溢れ出ようとするなにかを堰き止めて、
 その場に両膝をつく。
 口の端から零れ落ちるもの。
 意味のない音。
 言葉にもならない声。
 血。
「兄貴!」
「来るな!」
 此方に手を伸ばして今にも駆け寄ろうとした狭霧が、動きを止める。
「父さん、呼んで、今すぐ始め⋯⋯」
「呼びにいかせております」方丈深の声。
「そんなことより、先に自分やろ!」狭霧が周囲を取り囲む僧侶に向かって叫んだ。「なあ、救急車⋯⋯」
「狭霧」片膝をつき、立ち上がるために息を整える。「言うこと聞け。今、お前にできるのは、それだけや」
 俺が吐き捨てた言葉に対して、狭霧は眉を寄せて悔しげに顔を歪める。しかし、反論が零れることはない。
 珍しいな、と思った。
「そう⋯⋯」立てた片膝に手を置いて力を入れる。「それでいい」
「兄貴、」
「すまんけど、誰か、肩貸して、」
 そう呼びかけながら立ち上がろうとして、躰が揺れた。
 すぐに、誰かの手が俺の肩を掴み、危なげなく躰を支える。
「私が」方丈永だった。「いつもの場所でよろしいですか?」
「そう⋯⋯、すまん、あとは、頼むわ」
「承知いたしました」深がゆっくりと頭を下げる。
 方丈永に連れられて暗闇を進み、山の中を歩いた。しばらく上ると、小屋が見える。永は、俺をその小屋まで引き摺り、土足で中に踏み込んだ。
 本堂と違って、小屋の中は露骨な外気に晒されていた。小屋に在るものは、簡素な護摩壇のみ。
「お躰のほうは⋯⋯」護摩壇の前に座るのを手伝いながら永が訊ねた。
「いやあ、ちょっとタイミングまずかったな。だってさあ⋯⋯、まさかあんな、止める暇もないとは思わんくて⋯⋯」
「私は、お躰の調子を訊ねています」
「弟には、うまいこと誤魔化しといて」
「陽桐さま⋯⋯」永は低くそう呟いたが、すぐに息を素早く吐き出し、いつもどおりの平坦な声に戻る。「承知いたしました」
 小屋の中は灯りもなく、暗闇ばかりが広がっている。
 永が手持ちの小型ライトを中央に置いた。照らし出された方丈永はいつもどおり、スーツを身に纏っていた。
 その後、彼の手を借りながら護摩壇に火を灯す準備を進めていく。
「それにしても、予想以上に早いと思っとったけど⋯⋯」
「若のタイムリミットのことですか?」
「うん⋯⋯、でも、ちゃうな。相当遅らせてこれみたいやわ」
「え?」永が僅かに目を見開いた。「まさか⋯⋯」
「弟の中身のほうが、だいぶ頑張って抵抗しとるみたいやで」
「つまり、その反動による吐血だと?」
「そういうこと」
「しかし⋯⋯、これはどう捉えるべきでしょうか。やはり、若の裡に眠る『男』の力が強すぎるためだと考えるべきとはいえ、現に今、抵抗しているということは、『男』にとっても抗いがたい力によるものと考えられます。そもそも、先日、いくら若の感情が昂ったとはいえ、突然『男』の封印が解けたことも不可解です。やはり、その⋯⋯」
「斎ちゃん?」
「はい」永は控えめに頷いた。「やはり、近衛斎が傍にいることによって、触発されているのでは⋯⋯」
「さあ⋯⋯、どうやろな」
 近衛斎が受けた呪い。
 三年前、それを調べた近衛家が此方に流した情報は、久遠寺にとって絶望的な内容だった。これから先、自分たちがどのように行動したとしても、この呪いは成就する。つまり、久遠寺が代々、命をかけてまで守り続けた封印が此処で終わるということだ。
 それだけは阻止しなければならなかった。
 直継の悲願だけは、達成させてはならなかった。
 だというのに。
 彼女は、呪いを受けてしまった。
 受け入れてしまった。
 ただそれだけ。
 たったそれだけのことで。
 否、
 イヴの完全体が初めて成功した、と直継に送り込んでいた永から報告があったのは、狭霧が生まれたあと。イヴを生み出すための実験は、直継によって何十年、何百年とおこなわれていたにもかかわらず、だ。
 その事実が意味すること。
 イヴが生まれるためには、アダムが先に生まれなければならなかった。
 アダムの肋骨から生み出されたのと同じ。彼らの概念を持つ存在もまた、その順番でなければ生まれなかった。
 つまり、
 彼女が呪いを受けるずっと前から、
 きっと、これは全て必然だった。
「全部誰かのせいってことにできたら、楽やったんやけどなあ」
 方丈永は、眉根を寄せている。
 しかし、一度だけ、同意を示すようにゆっくりと頷いた。