第九章 小寒

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 午後三時過ぎ、オレと狭霧は近衛さんの病室をあとにした。
 実家に向かう前に一度、家に戻って制服に着替えた。実家における正装と言えば、狭霧は黒紋付羽織袴の礼装に半袈裟、オレは狭霧と同じか、もしくは正式な法衣だが、そこまで格式ばったものを着る機会は学生のオレたちにはそうそうない。今回は制服で充分だろう、という話になった。
 電車に乗って、数駅先で降りる。
 その後、新幹線に乗車した。
 着席して間もなく出発した新幹線の中、窓の向こう側で流れていく風景を、オレは遠い焦点で眺める。
「なあ」
 乗車して数十分が経過した頃、狭霧が突然口を開いた。
「ん?」
「俺さ⋯⋯」
「うん」
「なんていうか⋯⋯、自分はなんも知らんし、なんもできひんのやって、ずっと思ってて⋯⋯、実際、実家は俺になんにも教えてくれへんし、それがすごい疎外感で、無力やなって痛感させられて、やのに、周りはいろいろ抱えて苦しんどるっていう状況が、ずっと、ほんまに嫌やった。やから、俺にできることとかしてやれることがないかって、ずっと探して、何回もしつこく訊いたりして、躍起になってたんやと思う」
 新幹線の窓から目を離し、狭霧に顔を向ける。
 狭霧は、抑えた声で話を続けた。
「でも、家がなんにも言わんかったのは俺のためなんや、っていうのも、頭ではわかってるつもりやねん。なんも知らんままじっとせえ、守られてろって家が言うのも、ある意味、当たり前なんやと思う。それを、こんな我儘みたいな感情で動いて⋯⋯、そのせいで、俺のせいで、誰かに迷惑がかかるってことも、頭では、わかってる」
「うん」
「やけど、手を伸ばせば守れるもんを守らんと見過ごして見捨てることだけは、やっぱり俺にはできん。それだけは、許せへん」
「うん」
「俺は、たしかに、じっとしとくことしかできんけど、それでも⋯⋯、それは、あいつを見捨てていい理由にはならんやろ」
「そうだな」
「俺は、間違っても、死ねんでごめんとか言うてほしくない」狭霧は少し、視線を下げる。「自惚れかもしれんけど、でも⋯⋯、俺らと会って、いっしょにおることで、嬢さんが少しでも、今を楽しいって思えるようになって、嬉しいって思ってくれるなら、それでいい。俺が生きてて、お前が生きてて、嬢さんが生きてて⋯⋯、お互いがお互い、勝手に生きとるだけで、勝手に救われることだってあるやんか。なんか、もうそれで充分やん、って思ったというか。生きてるだけで万々歳っていうか、丸儲けっていうかさ⋯⋯、これ、言いたいこと、伝わる?」
「うん」狭霧にも視えるように、いつもより大きな動作で頷く。「大丈夫」
「やから、俺らに約束ごとがあるとしたら、とりあえず生きろ、かなと思って」
「⋯⋯、うん」
「真崎」
「ん?」
「正直、怖いな」
 狭霧が此方を見て、笑った。
 眉を寄せて、苦しそうに。哀しそうに。
 それでも、笑っている。
「あかん、ほんま⋯⋯、馬鹿みたいに怖いねん」
「うん」
「なあ。もし、俺じゃなくなったときは、俺のこと、骨折れるくらい殴って起こしてな」
「当たり前だろ」狭霧に向かって、笑みを見せる。狭霧には視えていなくても、無意味なことだとは思わない。「オレと近衛さんで、お前の全身の骨折ってでも、叩き起こしてやるよ」
「うん」狭霧は、静かに笑った。「ありがとう」
 新幹線の窓から見える空が徐々に暗くなり、実家の最寄り駅に到着する頃には、すっかり夜になっていた。午後七時を過ぎている。久遠寺までは、さらに此処から車で三十分ほど移動しなければならない。
 駅のロータリーに出てまもなく、見覚えのある車が目の前で停車する。しかし、運転席に座っていたのは坊主の男だった。こうして顔を合わせて話すのは、文化祭の日、近衛さんの家で対面したとき以来だ。
「お疲れさまでした。ご無事でなによりです」方丈敬が軽く頭を下げた。その後、敬は狭霧に顔を向ける。「お久しぶりです、若。すんません、急やったもんで、僕みたいな下っ端のお出迎えになってしもて申し訳ないんですけど⋯⋯」
「いや、そんなんべつに気にしてないっていうか、下とか上とか自分らが気にしすぎなだけやと思うけど⋯⋯」狭霧が答えた。「むしろ、迎えに来てくれてありがとう」
「姉貴は?」助手席に座りながら、オレは敬に訊ねる。迎えにきてほしい、と自分は姉に連絡を入れたはずだった。
「はい、ほんまは、真墨さまがお迎えに上がる予定やったんですけど、その、なんやいろいろありまして⋯⋯」
「いろいろ?」
「実は、突然車の鍵を渡されて、代わりに行ってこい⋯⋯、と」敬はあっさりと観念して答えた。「たまたま真墨さまの近くを手ぶらで通りがかってしもた自分に白羽の矢が立ちました」
「敬も大変だな」狭霧のために、できるだけ自然に敬の名を出しておいた。
 後部座席に座った狭霧がシートベルトを締めたのを確認して、敬が車を発進させた。敬が運転する車に乗るのは、これが初めてだった。
「しっかし、姉貴の奴、まじでなんなんだよ、ったく⋯⋯」抑えきれず、愚痴を零す。
「真墨さまのことですから、考えたところで僕らの理解が追いつくとも思いませんけど」ハンドルを握りながら、敬は少し明るい口調で言った。「それにしても、ほんまに急のお戻りでしたね。このまま冬休みの間は此方におってなんですか? 随分荷物が少ない気ィしますけど」
「いや」後部座席から狭霧が答えた。「多分、明日か明後日には帰る」
「え? そんな蜻蛉返りなんですか?」
「まあ⋯⋯」狭霧は曖昧に返事を濁す。最悪の場合、今日の間に家を追い出されるかもしれない、とは言えなかった。
「うーん、でもまあ、たしかに、年末年始はどうしても忙しいですからね。若も真崎さまも、学生のうちに、たまには別の場所で年越すのもええんちゃいますか」
「そういうもんかな」
 人気のない田畑を抜けて、車は山を登る。駐車場に車を停めてから、さらに階段を上った。
 あたりは既に暗く、夜の静寂と冷気だけが広がっている。
 父に帰宅の挨拶をしたいと敬に訊ねると、彼は渡り廊下を通ってオレたちを離れに案内した。敬はその場で軽く頭を下げると、来た道を戻っていった。
 オレたちは、襖の前に立つ。
「ただいま戻りました」部屋の中に向かって声をかける。
「入れ」部屋の中から、父が答えた。
 襖を少し引き、そのまま押し開ける。軽く頭を下げて躰をずらすと、狭霧が先に入室した。そのあとに自分も入室し、襖を閉める。
 上座の正面に狭霧の父。少し離れた場所に、自分の父が座っている。
 狭霧は久遠照雪と向かい合う形で下座に座り、自分はその斜め後ろ、もっとも襖に近い場所に座った。
「まず⋯⋯」照雪さまは一同を見渡しすと、おもむろに口を開いた。「お前が無事に戻ってきたことを、喜ばしく思う」
「ありがとうございます」狭霧が頭を下げた。
「封印が解けた、ということだが⋯⋯」照雪さまが一度、此方に視線を向ける。「その後の経過も、報告は受けている。だが、お前の口から、直接聞いておきたい」
「自分には、特に問題ありません」狭霧が答えた。
「そうか」照雪さまが頷く。「それで、話がある、と言っていたな」
「はい」
 狭霧の背中を見る。
 制服を着て、背筋を伸ばした、狭霧の後ろ姿。
「俺は、父さんの⋯⋯、家の言うことを、なんでも、必ず聞くって、改めて、約束する」狭霧が、硬い声で言った。「ただし、ひとつだけ、条件があります」