第九章 小寒

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 魔術において、削除、と表現される代表例は記憶の忘却だ。しかし、これはあくまで、記憶を空白で上書きしている状態にすぎない。あった、という記録を空のファイルで上書き保存しているだけだ。
 世界を構築する記述を削除する、という術式は存在しない。時間は巻き戻せない。過去はやり直しができない。それらと同義だ。一度記述されたコードは、手順に沿って書き直すことはできても、完全に削除することはできない。
 だが、法に触れることができるとなると、話は変わってくる。
 自分は、高坂八束という最も魔法に近しい人物といたというのに、その可能性をまったく考えていなかった。否、考えたことは何度もある。そんなものは魔法だ、と口にしたことさえある。しかし、それを、現実に起こり得るものとして考えたことがなかった。
 高坂八束は、魔法によってその存在を削除されたのだ。
 そうでもなければ、存在していた、という痕跡が、あれほど見事に消え去るはずがない。彼女が鋏を喉に突き立てようとしたその瞬間に、彼女が消え、そして、世界から高坂八束という存在が消えた。記憶の中の彼女を人々は忘却した。彼女のカルテは一枚も見つからなかった。彼女の部屋は無人になった。彼女が育てていた植物も、読みかけだった本の数々も、これがないと眠れないのだと零していたクマのぬいぐるみも、すべてが消えた。
 これでは、まるで。
「有り得るのか、そんなことが⋯⋯」
「悪魔を喚びだしてみてはいかがですか?」
「は?」
 変わらず穏やかな笑みを浮かべる目の前の男から放たれたとは思えないほど、それは衝撃的な発言だった。
「魔法について記された未発表の書物がないか捜してほしい、と貴方は私に依頼しました。その結果、見つけたものはこの論文一本です。つまり、貴方は既に、公開されている関連書物は全て調べ終えている、ということ。その上で未発表のものをと依頼したのであれば、めぼしい情報がなかったということです。しかし、貴方は今、喜ばしいことに、めぼしい情報に巡り合った。貴方の表情で、それはすぐにわかります。であれば、最も有力な手がかりは、魔法を駆使するという悪魔では?」
「いや、言っている意味はわかるが、そもそも⋯⋯」
「私よりも、貴方のほうが成功する確率が高い。それは貴方に流れる血のためであり、貴方の適性のためです。見るべくして見る者だけが見る。それを、貴方は見た。悪魔喚起術の再現可能性を否定するには、惜しい材料が揃っています」
「喚びだしたあとの影響は計り知れない。それを制御できるかどうかも不確定だ」
「意外ですね」男は、静かに微笑んだまま。「貴方はもう、どうなってもい、と考えているのだとばかり」
「なに?」
「いいえ。喜ばしいことです」男は片手を差し出し、此方が手にしている論文を指し示した。「試してみるだけの価値はあると思います。少なくとも、学術的興味のためだけに、己の治療を後回しにして採血し、それを対価として差し出すような魔術師にとっては」
「他人のことを言えた口か?」
「私も同類だからこそ、口にすることができます」
「貴方はどう思う」喚起の手順が書かれたページを見せながら、男に訊ねる。
「魔法陣がふたつ書かれていますね。喚起の指定位置にひとつと、術者の立ち位置にひとつ。おそらく、悪魔を喚起するための魔法陣と、術者自身を防御するための魔法陣でしょう。どちらも失われつつある非常に珍しい魔術体系であり、そもそも、この著者のオリジナルが惜しげもなく使用されているようですが⋯⋯、後者の魔法陣には、現在の結界と同じ構造が窺えます」
「そちらの魔法陣の発動をたしかめてから、というわけか」
「それが最も安全です」
「俺が用意した対抗策、か⋯⋯」ページの隅に書かれた走り書きを読み上げる。「なにに対する対抗策だ?」
「まず、なぜ天使の召喚や悪魔の喚起が再現できなくなったのか、という点について考察しなければ、その答えを得ることは難しいでしょう。しかし、それだけの時間は残されていません。非常に残念なことにね」
「成功したときは、ご連絡しますよ」
「できるなら、ぜひ、この目で見てみたいものです」
「生憎、もうしばらく日本を離れるつもりはないのでな」
「私が時間を作りましょう。次は、できれば、貴方と議論できるだけの時間を確保します」男は足を少し開くと、上体を前傾させて此方を見据えた。「たとえば、直継について⋯⋯、など、いかがですか?」
「さすがだな。もう把握していたのか」
「否定しないのですね?」
「特段、否定する理由がない。だが⋯⋯、貴方はそれを知っていて、俺にこの論文を渡したというのか?」
「貴方が直継に手を貸していることと、貴方にこの論文を渡すこと。これらには、まったく関係がありません」
「悪用や流用、漏洩の危険があったことは事実だ」
「ですから、貴方の血をいただきました」
「そんなもの⋯⋯、正式な血約であればともかく、気休めにしかならない」鼻を軽く鳴らして笑った。「まあ、貴方が得ているだろう情報のとおりだ」
「貴方のことですから、なにか目的があるのでしょう。その点について、西洋魔術協会の人間として、あるまじきことではありますが、糾弾するつもりはありません。その代わり、お伺いしたいことがあります。人としての尊重、自律性、非有害性、公正性、その全ては犯されてはならず、しかし、その全てを犯す組織が直継です。極端な思想のもと、人間を改造し、人間の手で新たに創造する。数々の科学倫理を平然と犯す魔術組織、という存在が、どれほど異端であるのか、貴方であれば、ご理解いただけますね?」
「俺個人の倫理的妥当性の判断など、燃え盛る家に落とした涙にも満たないだろうな」
「少なくとも、良くも悪くも進みすぎています。我々は、彼らを問題にするステージにまったく追いついていない。だからこそ、彼らを異端として括ることでしか対処できません。そして、実際に、表層の問題点は彼らにとって手段に他ならず、その真の目的が不明であるからこそ、現代にいたるまで、彼らを最大限に警戒せざるを得ない状況です。彼らへの言及そのものが禁忌タブーとなっている現状を打破し、彼らに向き合わなければならない。それが、我々魔術協会の任務です」
「奴らの目的にさして興味はない」封筒の中に紙束をしまう。「日本政府や一部の魔術組織は既に把握している。そちらに訊ねたほうが、正確な情報がより迅速に得られるだろう」
「そもそも、いったい、貴方はどのようにしてあの直継に潜り込んだのですか?」
「向こうからのスカウトだ」
「貴方は彼らの目的を知らない。いいえ、貴方は、目的を把握しないようにしている」男は正面から此方を見据えた。「そうですね?」
「残念だが、時間切れだ」封筒を差し出す。「だが、そうだな。悪魔を喚びだすことができたら、先ほどの問いに答えよう」
「やはり、十五分では不充分でしたか?」男が封筒を受け取った。
「問題ない」最後に、もう一度腕時計を確認してから席を立つ。「手順は覚えた」
「幸運を祈ります」男も静かに立ち上がると、握手を求めて、此方に腕を差し出した。