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去年の春は、ほとんどを病院で過ごしていた。桜が咲き始めた頃、母が一度、姉を連れて見舞いに来たことがあった。
母はいつもどおりベッドの傍に椅子を置いて座っていたが、姉は出入口とベッドの中間辺りに立ち、黙って此方を眺めていた。ほとんど僕と母が会話をしていたが、不意に、母が後ろを振り返って姉に話を振った。
「貴女、今、春休みなんでしょう? それなら、少し話し相手になってあげたら? いつでもいいわ、また来てあげなさいな。折角だもの⋯⋯」
「べつに⋯⋯」姉は少し目を伏せながら歯切れ悪く言った。
「ほら⋯⋯、桜がもう少し咲いたら、見に行くのもいいと思うわ。この子も、病院の敷地内なら、車椅子で外に出られるでしょうし⋯⋯、少しくらい外に出て気分転換するのもいいわね」
「そうだね」僕は姉の代わりに答えた。「もう咲いてるの?」
「そうね、今は少し咲き始めた頃かしら⋯⋯」母は椅子から立ち上がると、病室の窓辺に立って外を見た。「折角だわ。まだ咲き始めたばかりだけれど、少し見に行ってみましょうか」
僕は母の手を借りて、車椅子に座った。車椅子は母が押し、その後ろを姉が歩く。看護師の女性に一言報告をしてから、エレベータでロビーに下り、病院の庭を一周した。姉は終始無言だった。けれど、僕たちから少し離れた場所で桜を見上げている姉の横顔は、今でも覚えている。
「やっぱり、蕾が多いわね」母が残念そうに呟いた。
「でも、可愛い花が咲いてるよ」僕も桜の木を見上げて答える。「満開になったらもっと綺麗だろうけど、今は今で、見に来て良かったな」
「そうねえ⋯⋯」
「これが最後かもしれないしね」
「ちょっと、滅多なことを言わないでちょうだい⋯⋯」母は困ったように眉を寄せて此方を見た。「縁起でもないんだから⋯⋯」
「ごめん」本当のことだろ、とは、口が裂けても言えない。
「また、しっかり咲いてから見に来るといいわ」母は穏やかな声音を意識して言った。「お姉ちゃんに連れてきてもらって、ね?」
「うん⋯⋯」
しかしその年は、僕の体調もあり、それ以降姉と桜を見ることはなかった。結局、その次の年、僕は梅が咲く頃に躰を手放してしまった。
姉は、そのことを言っているのかもしれない。姉はいつも面倒くさがっていたけれど、それでも、毎年春になると、両親や僕の数歩後ろを歩きながらいっしょに桜を見て、お花見をした。
姉はずっと、中庭の桜を見つめている。
「桜なら、今いっしょに見てるよ」僕はできるだけ邪魔にならないように、控えめに言った。
「そうじゃない」独り言のように、姉が答える。「ふたりで見たかった」
「別々の躰で、ということ?」
「来年も見られると思っていたのよ」
手の甲に、なにかが触れた。落ちた。温かい水だった。なにかが頬を滑り落ちた感触を、遅れて知覚した。それから、目を覆う熱いなにか。
「姉さん、泣いてるの?」
「そう」
「どうして?」
「私が逃げたくて、許されたくて、怖くて、だから、お前を生み出しただけよ、きっと」
「僕は姉さんの意識に過ぎないって?」
「それ以外に有り得ない」
「違うよ」
「違わない」
「僕、姉さんの背中だって見えるよ。ねえ、姉さんだって、ちょっと変だなって、本当はわかってるんだろ?」
姉さん。
僕が僕であることを認めるだけで、姉さんはきっと楽になれるはずなのに。
彼女はそれを、頑なに認めようとしない。
許されることを、許していない。
それが姉さんの優しさで、姉さんの誠実さだと気づくのに、随分時間がかかってしまったけれど。
「僕のことを、僕だって、姉さんが認めて頷いてくれるだけで、僕は僕になれる」
「なんの解決にもならないわ」
「僕は姉さんじゃなくて、僕だよ」
「そう思い込めば、私が楽になれるって?」姉が睨みつけた。
「違うよ。ただ、そうだねって、頷いてくれたらそれでいい。ううん⋯⋯、本当は、信じなくたっていい。それで姉さんが救われるなら、それでいいよ。僕は姉さんが頭の中に生み出した幻覚に過ぎないんだって、そう思うことで姉さんが楽になるなら、僕はそれでいい。でも、姉さんはそうじゃないだろ。僕が僕じゃないと思っていて、だからこそ、姉さんは辛いんだ」
痛くて、苦しくて、それでも生きたいと思ったから、自由になりたかった。躰なんてものから解放されたかった。逃げるためとか、もう全部捨てたくて、とか、どうでもよくなったとか、そうじゃなくて、僕はただ、生きたかっただけだ。
両親に、姉に、こんなに、迷惑をかけたくせに。
苦しみを背負わせて、
こんなに傷つけて、
それでも。
生きたかった。
生きたいと願うことは、悪いこと?
僕は、生き延びなければ良かった?
わからない。
でも、ごめんね、姉さん。
僕はやっぱり、何度やり直せても、きっと同じ道を選ぶ。
姉さんが僕の言葉を覚えていてくれたことが、僕は嬉しかった。
姉さんが毎日一本、僕の仏壇の香炉に線香を立ててくれるだけで、僕は、嬉しかった。
でも、それだって、こうして生きていなければ、僕は知ることもできなかった。生きていなきゃ、誰にも、なにも、伝えられない。
だから、生き延びたことを、後悔はしていない。
ごめんね。
でも、僕たちはまだ生きている。
まだ、誰かに、なにかを、伝えられる。
手遅れじゃない。
まだ、大丈夫。
それを、いつか姉さんが、心の底から信じられる日が来るまで。
僕はずっと、証明し続けるよ。
「桜を、見せてあげたかった」
「うん」
「本当よ。本当なの」手の甲にいくつも落ちる、熱い液体。「あのとき、面倒くさがったりしないで、ちゃんと連れて行けば良かった」
「うん」
「次はちゃんと素直になって、来年、桜が咲いたら、車椅子を押してでも、なにをしてでも、面倒くさがったりしないで、お前を連れて行ってあげようなんて呑気に思っていた自分が、馬鹿みたいで、せめて、そう伝えておけたら良かったのに、恥ずかしくて、意地みたいなもので、そんなもののせいで、私はなにもかも伝え損ねて、なにも届かないまま、お前はなにも知らないまま、どこにもいなくなってしまって、それを、許してほしくて、許されたくて、お前の幻覚に、ちゃんと届いてるよ、なんて、言わせて、私⋯⋯」姉は瞼を閉じた。その拍子に、また、涙が簡単に零れて、落ちた。「戻ってやり直せたら、言えなかったこと、全部伝えるのにって、でも、戻ってやり直すことなんてできないのに、もう二度と、伝えられない、言葉も、気持ちも、今さら⋯⋯」
力の抜けた指の隙間から、
煙草が、音もなく落ちた。
「手を合わせて、弔う振りをして、許されたかった。だって、もう次はないかも、なんて、お前は毎年のように言っていたから、だから次もまた、きっと次があるに決まってる、なんて、そんな、馬鹿な私に、大丈夫だって、ちゃんと伝わってたから、大丈夫、って、その一言が、欲しくて⋯⋯」
姉は閉じた両目を、両手で押さえて、蹲るようにして、声をあげて、喉を詰まらせて、泣いた。
桜は見えなくなった。
それでも、目を開ければ、そこには桜がある。
咲いている。
それを、僕たちは、きっと見る。
悲観することはなにもない。あのとき口にした次の時間は、こうして訪れている。それは、間違いなく、姉のおかげだった。いろいろなものを犠牲にして、そうして僕に与えてくれた、続きのおかげ。生きたい、という動機が、なにを犠牲にしてもいい理由にはならないことを今さら知った僕への、罪の時間。
僕はまだ生きているのに、どうして姉が泣いているのかはわからなかった。けれど、僕に理解できないということは、やはり僕と姉は別々の存在であることを証明しているようにも思われて、ならば僕は、わからないままでありたい。やはり、僕と姉はきっと、一生、お互いを理解できないままなのだ。
それこそが、僕が僕であることの、証明の第一歩。
大丈夫。
届いてるよ。
だって、僕たちはまだ、生きている。
大丈夫。
僕たちはきっと伝え合えるよ。
生きていれば、必ず。
そのために、今、僕が姉にかけてやれる言葉なんて随分と限られていて、だからまずは、もうすっかり口癖になってしまった言葉を、僕はもう一度口にするのだった。
悔いと跋扈 QUIT TOBACCO 終