第七章 小雪

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 真崎に腕を引かれて数分走り、マンションに到着した。しかし、真崎はまっすぐマンションの駐車場に向かうと、一台のバイクに鍵を差す。実家に置かれているはずの、真崎のバイクだった。
「バイク、いつの間に⋯⋯」
「話はあとだ」真崎は此方にヘルメットを投げて寄越した。「早く乗れ」
「おい、真崎⋯⋯」返事はない。真崎はバイクに跨り、ヘルメットを装着している。「おい、ええ加減にせえよ!」
「そりゃこっちの台詞だ!」突如、真崎が叫んだ。「早く乗れ! 時間がねえっつってんだろ!」
「くそッ⋯⋯」舌打ちを零したが、苛立ちが収まる気配はない。
 半ばやけくそでヘルメットを被り、真崎の後ろに座る。バイクはすぐに発進した。真崎は容赦なくアクセルを捻り、加速させていく。後ろからメータを覗くと、法定速度を超過しようとしていた。
 数分後、バイクは住宅街の中にある寺院の前で停まる。バイクを降りてヘルメットを脱ぎながら、わけもわからずに真崎の後ろをついて歩いていると、ひとりの僧侶が現れた。本堂の階段脇から客間に通される。案内の途中、真崎は男を「住職」と呼びながらいくつか言葉を交わしていた。どうやら顔見知りのようらしい。
「久遠寺には、此方から連絡をいたしますので」住職が言った。
「お願いします」真崎は軽く頭を下げると、客間の中で荷物を下ろし、真っ先に錫杖袋を手に取った。
 客間は、普段は行事などの待機室として使われているのか、畳の上にパイプ椅子が数列並べられていた。奥には、ウォータサーバが置かれている。客間の入口近くに腰を下ろした真崎は、袋の中から錫杖を取り出すと、小声でなにかを呟きながら組み立て始める。時折聞こえた言葉からすると、経典のようだった。
 俺はただ、客間の中央で突っ立っていることしかできずにいる。
 今、なにが起こっていて、自分はなぜ、こんなところにいるのか。一体、真崎はなにをしているのか。なにもわからずに混乱する頭の中で、しかし、声をかけてはいけないことだけは理解できた。
 しばらくして、住職が再び姿を見せる。真崎の様子を確認した住職は、無言のまま、此方に向かって歩いてきた。
「手筈どおりに、とご連絡がありました。のちほど名護さまにお伝えください」
「あの、すみません。これはいったい、どういう⋯⋯」
「此処は、避難場所のようなものだとお考えください。久遠寺までご無事で戻られるためにも、態勢を整える必要があります。直継の動きが予定よりも早かったため、少しお時間をいただきますが⋯⋯」
「今、俺らが、まさに追われとるってことですか?」小声で訊ねる。「そんで⋯⋯、また家に戻れってこと?」
「はい。予定では、先日、おふたりがご実家に戻られた際に、そのまま引き止める手筈だったようですが、なにやら事情が変わり、一度、此方に戻ることになったとお聞きしています」
「なんの話ですか?」
「申し訳ありませんが⋯⋯」住職が頭を下げた。
「失礼します」客間の襖が開き、男が現れた。「お取込み中のところすみません、先ほど、このようなものが⋯⋯」
 住職とふたりで、その男に近づいた。白い封筒を持っている。封筒に手を伸ばそうとすると、住職に止められた。住職が封筒を手に取り、中身を取り出す。白い紙が出てきただけで、特になにも起こらない。慎重に紙を開いた住職は、数秒かけて目を通すと、僅かに慌てた様子で真崎を呼んだ。
 錫杖を片手に立ち上がって、真崎が此方にやってくる。
「手紙ですか?」真崎が訊ねた。「誰から?」
「宛先も送り先も書かれていません。ですが⋯⋯」
 住職が説明をしている途中で、手紙を半ば無理やり奪い取った。慌てた制止の声を無視して手紙を開く。真崎も横から、手紙を覗き込んできた。
「彼女と共に、羽張神社でお待ちしております⋯⋯」手紙を読み上げる。「羽張神社って、近衛の⋯⋯」
「罠だ、やめとけ」真崎は舌打ちをすると、俺の手から手紙を抜き取った。「忘れろ。もうすぐ、オレも準備できるから」
「忘れろって、でもこれ、嬢さんのことやろ」
「そんなあからさまに怪しい誘いに乗るつもりか?」
「怪しいってことくらいわかっとる。けど、」
「お前のために、どれだけの人間が動いてると思ってんだ!」真崎が叫ぶ。客間が、水を打ったように静まり返った。「お前の安全のために、お前が無事に逃げ伸びるために、どれだけの覚悟があったかわかってんのか! それを、お前が全部無駄にするつもりかよ!」
「なんやそれ」真崎の言葉を聞いた途端、瞬発的に針が動き、なにかのメータが振り切れた自覚を、どこか他人事のように捉えていた。「そんな覚悟、していらんわ」
 怒りが湧き上がる。
 揺れるような目眩と、激しい耳鳴りがする。
「ふざけんのも大概にせえや。俺の安全のため? 俺の無事のため? そのための覚悟やと? 俺はいったい何様やねん。俺にどれほどの価値があるっちゅうんじゃ。そんなもんに、優劣なんぞあるわけないやろ!」
「優劣がある世界なんだよ」低く唸るような声は、僅かに震えていた。「頼む、頼むから、その手紙を無視しろ。こっちは一分一秒が惜しいんだ。頼むから、逃げるって言ってくれ」
「絶対嫌や」
「ふざけてんのはお前のほうだぞ、狭霧!」
 真崎に、胸倉を掴まれる。
 放り投げられた錫杖が、音を立てて客間に打ち捨てられた。
「餓鬼みてえに駄々捏ねてる場合じゃねえってことくらい、わかるだろうがよ!」
「わからん思たか」
「あ?」
「どうせほとんど見えてへん、お前の顔もわからんくらいやから、バレへんやろって高括っとったか。悪いけど、よう見えるわ。これがお前の本意じゃないことくらい、俺でもわかる」
「適当抜かしてんじゃ⋯⋯」
「お前がいちばんようわかっとるやろ」胸倉を掴まれたまま、負けじと真崎の顔の中心を睨む。「ほら、また揺れよった。図星で動揺したか? それとも罪悪感か? 後ろめたいことでもあるから、そうやって揺れとるんやろ」
「狭霧」胸倉を掴む力が、また強められた。徐々に、首が絞められていく。「いい加減にしろ。怒るぞ」
「逃げることが今の俺にできる最善なら、いくらでも逃げたる。でも、今はそうじゃないやろ!」
「隠しごとさせてくれって、言っただろ」真崎は素早く胸倉から手を離すと、俺の両肩を掴み直して項垂れた。「お前との約束だって、ちゃんと守ってる。これは逃げ切るためだ。生き延びるためだ。だから⋯⋯」
「逃げるなら、あいつも連れていく」
「狭霧、」
「だから、手遅れになる前に、」
 真崎の手の力が弛められ、ようやく解放されたと思った次の瞬間、真崎の手にとんでもない力が入り、吹き飛ばすようにして肩を押し出された。パイプ椅子を巻き込んで客間に倒れ込む。畳に打ち付けられる直前に受け身を取ったが、鈍い痛みと、摩擦した部分に鋭く熱が走った。
 衝撃音。
 急いで顔を持ち上げる。
 客間の壁が、貫通していた。大きな穴が開けられた壁からは、場違いなほど穏やかな境内と空の様子が見える。室内に顔を戻すと、並べられていたパイプ椅子は変形し、列を乱し、壁や床の間に激突していた。
 真崎は既に立ち上がっており、錫杖を片手に、柱に隠れながら外を警戒している。
 そして。
 どこか遠く聞こえる住職たちの指示や動揺の声の中、たしかに、足音が近づいてくるのを聞いた。