第七章 小雪

     9

「承知した」
「え?」驚いて、後ろを振り返る。
 突然、狭霧が口を開いた。つい先ほどまで、地面にひれ伏すように蹲り、喉を潰しかねない叫び声を上げていた。やがて叫び声は嗚咽に変わり、低く短い呻き声を零したあと、初めて発した言葉がそれだった。
 狭霧はゆっくりと上体を起こすと、俯いたまま、片膝に手をついて立ち上がる。
 やがて、ふらつくようにして揺れていた躰が、静止した。表情を覆い隠していた前髪の動きも、止まった。
「おい⋯⋯、狭霧?」
 狭霧が息を吸う音が、やけにはっきりと聞こえた。
「貴殿の行為、我々への最大の侮辱と受け取った」一度も聞いたことがない口調だった。静かで、どこか機械的な声音。「それ相応の敵対行為は許されるものと判断する」
「動くな!」咄嗟に叫び、狭霧の喉許に錫杖の先端を突きつけた。
 一瞬、狭霧が動きを止める。しかし、すぐに腕を緩慢に動かすと、眼鏡を外しながら静かに顔を持ち上げた。
 目が、赤い。
 血の色を湛えた瞳が、
 長い前髪に遮られながら、此方を捉えている。
「誰だ、お前。狭霧をどこにやった」
「安心してくれ。彼はすぐに返す」
「誰だっつってんだ!」錫杖を数ミリ押し込む。「なにが、狭霧の躰、どうなって⋯⋯」
「おい、まさか⋯⋯」背後では、奥にいた男が呟いた。「なぜ、今だ?」
「嘘だろ?」彼女を投げ落とした張本人、手前にいた金髪碧眼の男が、声を弾ませて言った。「最高だ。想定外だよ」
 狭霧は、否、狭霧であるはずの誰かは、錫杖を握って先端をずらすと、ゆったりとした足取りで男たちのほうへと歩み寄った。
「待て、おい、あいつらに近づくな!」
 狭霧の赤い目が、一瞬、横目で此方を見る。けれど、足取りは止まらない。
 背後で、誰かが動いた気配がした。
 急いでそちらに躰を向ける。
 だが、次の瞬間、そこにいた男が吹き飛んだ。男の躰が折れ曲がり、地面に勢いよく叩きつけられる。
 男は呻き声を零しながら腹を押さえると、濡れた咳を零した。
 地面に少量の血が飛び散る。
「無駄な抵抗は、やめておいたほうが賢明だ」狭霧の声。
 いつの間にか男のほうへ腕を伸ばしていた狭霧は、男を指差していた己の指先を見ながら呟いた。
「しかし、ここまでの魔力濃度で放出できるとは、私も少々驚いた」狭霧は指から視線を逸らすと、ひとり、ゆっくりと周囲を見渡す。「視界は⋯⋯、良好、とは言えないようだが。なるほど、魔力の可視化か。相当量の魔力を浴びて、取り込んでしまったらしい」
「ちょっとちょっと。どういうことか説明してくんない?」金髪の男が言った。「え? 君が例の男ってことだよな? マツギちゃんの推測が大当たり、僕の挑発が大成功したってこと? 大成功しすぎじゃない? 大体、それって、自分の好きなタイミングで切り換えられるわけ?」
「まさか。彼女とは異なり、私は厳重に封印されていた身だ。だが、貴様らの行為が、彼にとって、そして私にとって許せないものだった。それゆえの感情、魔力の暴発による一時的なものだ。同じ手を使ってもう一度私を呼び出そう、とはしないことだな」
「ああ⋯⋯、駄目だ、一気に興奮してきた」
 男は、地面に横たわったまま動かない彼女を、地面と連続しているかのようになんの躊躇いもなく踏むと、此方に向かって歩いてきた。
 狭霧は一度彼女に目を向けて、向かってくる男を正面から見据えた。
「名前は?」狭霧が男に訊ねる。
「僕? いいよ、君になら教えてやってもいい。ニコラ。ニコラ・ラングマン」
「そうか」
 狭霧は淡泊に返事をすると、一歩男に歩み寄った。
「あ、こっちでの名前のほうが良かった? 日本名は君島制⋯⋯、まあ、どっちでもいいよ。どっちも、もうあんまり僕の名前じゃないから」
「どうでもいい」狭霧は、ずっとポケットに入れられていたままだった男の左腕を突如掴んだ。「問題は此方だ」
「へえ⋯⋯」男が目を細める。「いつから気づいてた?」
「初めから」
「そうなんだ。うん、べつに、返してあげてもいいんだけど⋯⋯」
「貴様のものではない」
「ん?」
「彼女の一片たりとも、誰のものにもなりはしない。彼女は、彼女だけのものだ」狭霧が吐き捨てる。「返してもらおうか」
「いいよ」男は笑った。
 ポケットから左手を出して、此方に見せつける。
 手に握られていたのは、血塗れの眼球だった。
「僕の気が、向いたら、な!」
 突如、狭霧の手を振り払った男は、顔面めがけてもう片方の腕を振り下ろした。狭霧は咄嗟に上体を反らせて躱すが、僅かに躰の軸がぶれた隙を見計らって、男はすかさず狭霧の腹に膝を入れる。
「狭霧!」
「周囲を頼む!」
 オレの呼びかけにそう答えた狭霧は、腹を押さえながら態勢を整えると、男と同時に殴りかかった。互いに避けるが、男は屈むと、さらに下から顎を突き上げるように拳を一撃。一歩、二歩と後退しながら攻撃を受け流した狭霧は、勢いよく踏み込むや否や、突如逆立ちでもするかのように地面に片手をつきながら躰を捻り、足の甲で男の頭めがけて打撃を入れた。素早く足を戻して立ち上がるまでの間、男は直前で急激に上体を後ろに反らせていたらしく、手をついて後ろに回転しながら狭霧の足を避ける。
「ああ⋯⋯、ごめん、さっきのでビックリしちゃって、目玉、握り潰しちゃった」男は軽く頭を振りながら躰を起こし、挑発的な笑みを浮かべる。「僕のせいじゃないよな?」
 狭霧は無言で一瞥すると、男に飛びかかるようにして間合いを詰め、顔面を三度殴った。一歩下がると、再び蹴り技をしかけたが空振りし、男がカウンタをしかける。そのタイミングに合わせて後ろに大きく足を開いた狭霧は、その足を素早く引き戻しながら躰を回転させる。空中で足を振り上げて回し蹴り、男の頭に重い一撃を直撃させた。
 態勢を崩した男を取り押さえ、全身の力で地面に押さえつけている。
 その一瞬、狭霧の死角で、男が刃物を手にしているのが見えた。
「オン・ギャロダヤ・ソワカ!」錫杖をそちらに向けて、迦楼羅天の小咒を叫ぶ。男の手に握られていたナイフが弾かれるように地面を滑り、その隙に、狭霧が男を完全に押さえ込んだ。
「うっへえ⋯⋯、容赦ねえな。そんなにこの目が大事? そんなにあの子が大事なわけ? ああ、駄目だって、そんなに大事にされるとさあ⋯⋯、せっかくどうでもよくなってたところだったのに、どうでもよくなくなっちゃう」
「よく回る舌だ」
「いろいろ考えてたんだよ。君の前で、彼女に、なにをするか」
「契約魔術か?」
「え?」
「此方の注意を惹く会話をしながら、一方で契約魔術を仕込んでいたか。なかなかの手腕だが、私には意味がない。その目を返して、大人しく撤退しろ」
「本気で言ってんの?」男は愉快そうに笑いながら叫んだ。「おい、ノエル!」
「既に撤退済みのようだが」狭霧が横目で後ろを確認する。
「え、まじ? あんだよ⋯⋯、ほんと、面白くねえ奴。興覚めって感じ。君も甘いよな。逃げてることに気づいてたくせになにも言わなかったとかさ。僕のことも殺さない。憎くて憎くて堪らないから、君が表に出てきたんだろ? じゃあ、なんで?」
「彼の躰で、貴様を殺すわけにはいかないだろう」狭霧は男に顔を近づけた。「私も残念だ」
「じゃ、今度までに、思う存分殺し合いできるようにしといてね」
 男は押さえつけられたまま、手首を軽く動かして、持っていた眼球を放り投げた。狭霧は腕を伸ばして片手で掴み、立ち上がって男の拘束を解く。
 男は首を鳴らしながら緩慢に立ち上がると、周囲で警戒する人間には見向きもせずに、悠々と手を振って立ち去った。