第七章 小雪

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 此方に戻ってきてからというもの、しばらくの間、静かな日々が続いた。とはいえ、真崎や近衛は帰省を経て、少しずつ変化した点がある。
 真崎は、帰省後、どこかに出かけることが増えた。早朝に一度どこかに出かけたあと、家に戻ってきて、俺と共にまた家を出て日課のランニングに取り組んでいる。帰宅してからも、買い物のついでにどこかに寄っているらしい。本人から直接聞いたわけではないので、なにをしているのかまではわからない。
 近衛とは、先日、再び海を訪れた。「もう一度海に行きたい」という彼女の希望により、放課後、三人で電車に乗り、海をしばらく眺めてから帰った。冬の始まりを思わせる冷気を浴びながら見る海は寒々しく、夏に見た海よりも不気味に思われた。
 自分の隣で、近衛は、薄く伸ばした青色の空と寒々しい海を、ただ眺めていた。
「寒くないか」
 問いかけると、彼女は顔を此方に向けて緩やかに微笑んだ。
「そうね、少し寒いけれど⋯⋯」一瞬、強い風が吹いた。近衛は髪を片手で押さえ、目を伏せる。「もう少し、此処にいたいわ」
「俺らは、べつにいいんやけど⋯⋯」自分の右側に立っている真崎を確認すると、真崎も無言で、軽く頷いた。
 再び左側に顔を向けたときには、彼女は既に海のほうへ視線を戻していた。
 声をかけようとして、やめた。自分も彼女に倣って、もう一度海を見る。磯の香りにはまだ慣れない。彼女にも、この匂いはあまり似合わないような気がした。
「ねえ」近衛の声に、すぐに顔をそちらに向ける。「一度、貴方が好きな食べ物を食べてみたいわ」
「え、なに?」突然の話題についていけず、一瞬、思わず眉を顰めた。「どうしたん、急に」
「なにが好き?」
「えっと⋯⋯、え、いや、なんやろ⋯⋯、ざる蕎麦とか?」
「お蕎麦?」
「いや、待って、他にもあるから」しかし、あまりに唐突な問いかけにか、頭がうまく回っていない。「いや、こうなったら⋯⋯、思いついた料理、片っ端から全部食わしたる」
「楽しみね」
「他は?」
「他?」
「まだあるやろ、他にもなんか、こう⋯⋯、やりたいこと」
「貴方が叶えてくれるってこと?」
「なんか、嬢さんの我儘って、我儘じゃなさそうやし」
「どういう意味?」近衛は、不服そうに目を細める。
「俺でも叶えられる気がしてきた、っていう意味」少しだけ顎を持ち上げて、彼女に続きを促した。「それで、他には?」
「そうね⋯⋯」近衛はくすりと笑った。「貴方の趣味は? ゲーム?」
「趣味というより、最初は現実逃避やったけど⋯⋯、まあ、趣味みたいなもんかな」
「貴方がゲームをしているところ、一度、見てみたいわ」
「見たいか? それ」
「ええ」
「そんなん、いつでも見に来たらええやろ。面白いかどうかは保障せんけど」
「それから⋯⋯」
「それから?」
 彼女と、目が合う。
 彼女の瞳の奥には、不安定な揺らめきが在った。数度、長い睫毛が幽かに揺れる。彼女の姿だけが、この視界の中で、飛び抜けて鮮明だった。
「それから、貴方と⋯⋯」近衛は素早く瞼を閉じて、瞳を遮る。次に目を開けたとき、不安定な揺らめきは彼女の瞳のどこにも見当たらなかった。「いえ、なんでもないわ」そう答えて、近衛は俺の後ろに視線を移した。「ありがとう」
 彼女の視線を追って、振り返る。当然、そこには真崎しかいない。
 真崎の表情を窺うことはできないが、指先が一度だけ揺れたのを見た。
「そろそろ、帰りましょう」
「もうええんか?」
「ええ、充分です。満足したわ」近衛はまた微笑んだ。「そうね⋯⋯、今なら、くしゃみが出るくらい」
「くしゃみ?」眉を顰める。「やっぱり寒いんやん。それやったら早よ帰ろ。躰、冷やすなよ」
 しかし、彼女は笑みを零しながら、おどけたように小さく肩を竦めただけだった。
 それが数日前のことだ。
 冬に差しかかる時期にしばらく外に留まったせいで、彼女が本当に風邪でも引くのではないかと気が気でなかったが、どうやら大丈夫だったらしい。
 授業を終えて、校門から少し先へ進んだところで近衛と待ち合わせる。彼女から、数冊の文庫本を返却された。たしか、真墨が彼女に貸した実家のものだ。それを受け取って、三人並んで彼女の歩幅に合わせて帰路につく。
 午後三時半。
 いつもどおり。
 いつもどおりの、帰り道。
 突然、近衛が立ち止まった。
 それにつられて、自分の歩みも止まる。何気なく振り返った先には、少し俯いた近衛がいた。
「どうしたん?」
「ねえ」俯いたまま、彼女が言った。「五秒だけ、私の我儘を聞いて」
「え?」
「五秒間、動かないで。なにも聞かないで。お願い」
「近衛、」
 俺の呼びかけと、彼女が動き出したのは同時だった。
 躰が軽い衝撃を受け止める。彼女の頭がすぐ下にあった。旋毛が、目の前にある。彼女が此方に飛び込んだのだと気づいたのは、背中に回された腕の感触を認識したときだった。背中に触れている彼女の手が、セータを握る。強められた指の力を感じた。
 抱きつかれている。
 口を開きかけて、けれど、声を出す直前に先ほどの彼女の言葉を思い出した。彼女も、なにも言わない。あまりにも軽い躰だった。突然抱きつかれても、自分は僅かに後ろへ踏み込むだけで済んだほどの軽さだった。
 あの日と同じ香りがする。
 飛び降りて、満身創痍で、泣きながら「死ぬべきだった」と懺悔した彼女を抱き締めたときと同じ。
 自分の指が、少しだけ動かされた。
 彼女の背に手を添えようとして、しかし、一秒にも満たない逡巡のに衝動はその身を引いた。結局、指を数ミリ動かすにとどまる。
 もう、次の瞬間には、彼女は離れていた。
「ごめんなさい」見慣れた笑顔。「ありがとう」
「嬢さん、」
「久遠くん」見たことのない、表情。
「待っ、」
 声が詰まる。
 後ろから、手首を掴まれた。
 咄嗟に振り返る。真崎が俺の手首を掴み、片手の握力で此方の手首を締めつけている。笑顔ではないことは、この視界の中でもわかった。
 手首を握る力が、痛いほどに強まっていく。
「真崎⋯⋯」真崎はなにも言わずに俺の腕を引き寄せた。あまりの力強さにバランスを崩しかけたが、必死に踏みとどまる。「待って、真崎、」
「待たねえ」
「ちょお、ほんまになに?」抵抗しながら、彼女へと顔を向ける。近衛は依然としてその場に立ったまま、不必要なまでに、綺麗に微笑んでいた。「近衛、」
「またね」
 そう言った。彼女は控えめに手を振った。なんてことはない、いつもどおりの、よくある、別れの挨拶。
「ちょお待てって、」無言のまま腕を引かれた。「なあ、真崎!」
 真崎の力に敵うはずもなく、俺の躰はよろめいて、前傾し、彼女から一歩遠ざかる。
 そこからは、早かった。
 一歩、また一歩、遠ざかっていく。真崎に手首を掴まれたまま、無様に走るしかなかった。何度も振り返る。彼女の名を呼ぶ。けれど、真崎は止まらなかったし、近衛もその場から動くことはなかった。
 五秒間の温もりも、軽い重みも、あの香りも。
 もう、全部、どこにもない。