第七章 小雪

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「いやあ、それにしても、まさかお前とこうしてまた肩を並べる日が来るなんて、想像もしてなかったよな。今まで肩を並べたことなんてあったかどうかはさておき、まあそんな話はどっちでもよくて⋯⋯、そう、僕は僕で勝手に愉しませてもらうつもりなんだけど、お前はなにをするの? たしか、こっちでの名前は、操だっけ」
 耳障りな声が、俺の名を呼んだ。間延びした粘性の高い声が不快感を纏わせて全身に浸潤し、どれほど意識を逸らしても、完全に引き剥がすことができない。
 かつて兄だった男を前に、俺は包み隠さず嫌悪と敵意を露わにして顔を顰めてみせた。
「貴様に名を呼ばれる筋合いもなければ、此方の目的を話すつもりもない。俺も、貴様の全てに一切介入しない」
「ええ? せっかく久しぶりに会えたっていうのに、感動薄くない?」
「感動しているさ。母をあんな状態にしておいて、よくもその面を晒せたものだとな」
「ふぅん⋯⋯、なんだ、まだあのままなんだ」伊勢残が淡泊に呟いた。「うん、やっぱり、肉体よりも意識のほうがやりがいもあるし、面白いよな。躰だと、壊れちまったらそれで終わりだし。精神ストラクチャの複雑性、不確定性、プログラムの難解さといったら⋯⋯、おかげで加減が難しいのなんのって。でも、予期してない挙動とかされると、最高だろ? そう、今のところ、いちばん興味があるのは、肉体と意識がどこまで連続しているのか⋯⋯、いろいろ試してみたかったんだよね」
「あの女、これのどこが適任だ?」吐き捨てる。「いいか、貴様は黙れ。二度とその口を開くな。息を止めろ。俺の与り知らぬところで野垂れ死ね」
「たまに面白いこと言うよね、お前」軽い笑い声を零して、伊勢残は愉快そうに話しかけてきた。「あ、ごめん、もう口開いちゃった。どうする?」
 男を無視して突き進む。指示された場所は羽張神社だった。伊勢残曰く、近衛斎は研究施設からの逃亡後、此処に辿り着き、近衛家に匿われていたらしい。しかし今、自分たちが足を踏み入れることができている時点で、彼女は既に近衛家の保護下にはいないのだろう。
 羽張神社の敷地の森を抜けると、鳥居と広い参道が出現した。そこに、近衛斎が立っている。
 俺の隣で、伊勢残が大きく腕を振った。しかし、彼女はその様子を一瞥もせず、此方を正面から捉えている。
「久しぶりだな」
「あら⋯⋯」俺の言葉に、近衛斎は眉を寄せて片目を細めた。「どこかでお会いしたことがあったかしら?」
「君が直継のもとから脱走した際に、一度、な」
「記憶にないわ」
「構わない。俺が訊ねたいことについて、君が記憶していることを包み隠さず話してくれさえすれば、俺は君を傷つけるつもりはない」そこで言葉を切り、横に立つ男に一瞬だけ目を向けた。「まあ、此方の男がどうかは知らないが」
「どうぞお好きに。どのみち貴方の用が済めば、直継に引き渡されて処分されるのでしょうし。そんなわかりきったことはどうでもいいの。それより、貴方の要望は?」
「話が早くて助かるよ」
 自分たちと近衛は、参道を挟んで向かい合っていた。二メートルほどの距離があったが、周囲は異様に人気がなく、彼女の歯切れの良い声もよく聞き取ることができた。
「単刀直入に訊こう。脱走する直前に、君は或る少女に出会っているはずだ。君に呪いをかけて、君の目の前で鋏を喉に突き立てて自害した。覚えているか?」
「ええ。覚えています」
「君は、その彼女に⋯⋯、高坂先輩になにをした?」
「なにも」近衛は緩やかに首を振った。「私はただ、彼女に呪いをかけられただけです。呪いを受けて、衝撃に耐えきれずに躰が吹き飛びました。その後、彼女が鋏を喉に突き立てようとしたところまでは記憶しています。けれど、次に目を開いたときには、彼女の姿はどこにもなかった。その上、その場にいた研究員たちは皆、なぜ私がケージの外に立っているのかもわかっていないようでした」
「隠すなよ」参道に踏み込み、彼女に近づく。「なにをした。術式の消去でさえない、存在の消去だぞ。お前がなにかしたはずだ、いや⋯⋯」
 そこで、彼女の目の色を見た。
 間違えるはずもない。
「お前⋯⋯、瞳が、黒いのか?」
「なんの話?」近衛は訝しげな表情を僅かに浮かべた。「一応、日本人として作られているもの。目の色が黒くても、可笑しい話ではないはずだけれど」
「いや」笑みが、零れる。
 素早く一歩踏み出し、右手の拳で彼女の腹部を殴打した。
「すまないが、お前に用はない」
 近衛は折れるように、いとも容易くその場に崩れ落ちた。激しく咳き込みながら、彼女は蹲るようにして脱力する。彼女の前で片膝をついて、髪を掴んで彼女の顔を持ち上げた。端正な顔立ちは今、対称性を失い、苦痛に歪められている。
 あの日、高坂八束になにかをしたという女は、近衛斎ではなかった。
 であれば、彼女を生かしておく必要はもうない。用があるのは、彼らと同じ、近衛斎ではない『彼女』だ。
「おい」背後に立つ男に向けて呼びかけた。「もうひとりを表に引き摺り出す方法を教えろ。直継から聞いているんだろう」
「散々我慢してやったのに、頼み方がなってないんじゃないの?」緊張感のない足音が近づいてくる。「そもそも、僕が聞いたのはマツギちゃんの推測にしかすぎないよ。大体、僕は直継のお偉い方たちから、コノエちゃんを殺すように命じられてたんだぜ。まだコノエちゃんの中にいるっていうなら、殺しちゃ駄目だと思うけど」
「生きていなくとも、儀式が遂行できる可能性もある」
「いやあ、それはないでしょ。その、なんだっけ、儀式? ああ⋯⋯、あんまり興味ないんだよな。男が女を刺して、どうなるんだっけ? 覚えてないけど、マツギちゃんのところがやりたいってくらいなんだから、そこそこの儀式なんだろ。あれだけ自我だの意識だの、この人間が『誰か』にこだわっておいて、結局、必要なのはその躰だけ⋯⋯、ってことにはならないと思うけど。引き摺りだすもなにも、ゼロからなにかを引き摺りだしたって、ゼロのままか、いっそマイナスになるだけだ。そしたら、こっちをさっさと処分して、もう一度作り直して、成功すれば、『彼女』にはまた会える。コノエちゃんには会えないけどね」
「それもそうだな」彼女の髪から手を離し、立ち上がる。「では、あとは好きにしろ」
「あ、いっしょにする?」
「は?」
「だって、屋上から飛び降りても死ななかったんだぜ、この子。それが呪いに生かされてる証拠なら、つまり、なにしたって死なないわけだ。な、いろいろやってみたいだろ?」
「ほざけ」数歩後退し、腕を組む。「早くしろ」
「そんなわけだから、ごめんね、コノエちゃん」入れ替わるようにして伊勢が前に歩み出て、その場に屈む。「でも、約束どおり、君の大事な人たちのこと、追っかけたりしないからさ。いいよな?」
 近衛斎は、苦しげに浅い呼吸を繰り返しながら顔を持ち上げた。それと同時に、伊勢はポケットから折り畳み式のナイフを取り出す。素早くナイフを開き、流れるように彼女の右目に突き刺した。
「あ、」近衛の息が零れる。
「大丈夫、大丈夫」驚くほど場違いな、穏やかな声で伊勢が笑った。「生きたまま目を取り出すの、僕、得意だから」
 喉に詰まった、幽かな呻き声が聞こえた。伊勢は、彼女を地面に押し倒すと、刺したナイフを九十度回転させる。
「ッあ、」
「へえ⋯⋯、血液組成も違うんだ。ん? なにこれ。もしかして、銅でも多い?」
「いちいち喋るな。静かにしろ」少し離れた場所から声をかける。「見張る此方の身にもなれ」
「楽しいことは共有したいじゃん」ナイフを抜き取ると、仰向けに押し倒された彼女の躰を跨ぐ形で膝をつき、体勢を変えた。「さてと⋯⋯、そうだな。とりあえず、まずは切れ味でも試してみよっか」
「貴様にしては、随分お遊びじゃないか」
 鼻を鳴らして笑うと、男は此方に顔を向けた。
「そりゃそうだよ」青い目を細めて、男が微笑む。「いちばんのお楽しみは男の前で、って決めてるから」