(0,7)

     2

「すみません、ああ、いえ、脳神経外科がどちらにあるか、ご存じですか?」
 しばらく、その問いかけが自分に向けられているものだとはわからなかった。
 どうも自分に問いかけているらしい、と気づくまで数秒を要した。確認のため振り返ってみると、人の良い笑みを浮かべた男性が立っていた。年齢は四、五十代といったところだったが、老いを感じさせることも、また未来への諦観を感じさせることもない、柔和で穏やかな男性だった。
「いや、どうも迷ってしまって⋯⋯、かといって、看護師さんはこの時間、皆忙しそうだし、お医者さんはもっての外ですからね」
「お医者さんじゃないんですか?」私は思わずそう訊ねた。男性は、少しくたびれた白衣を着ていた。
「僕はね、大学の先生をしていて⋯⋯、だから、医者ってわけじゃないんです。研究者ということだね。ちょっとした応援で来ることになって、白衣を着てみたりしたんだけれども、ちょっと、あれみたいだね、ほら、なんていうんだったかな⋯⋯、仕事の服とか、アニメのキャラクタの衣装を着たりする」
「コスプレ?」
「そうそう、それだ⋯⋯、ちょっと違うかな?」
「さあ⋯⋯、でも、研究をする人というのは、皆、白衣を着てるんじゃないんですか。それなら、コスプレではないと思いますけど」
「白衣を着ている人間なんて、研究室にはいないよ。少なくとも、僕の研究室には」男性は笑みを深めた。「それで、脳神経外科の場所なんだけど⋯⋯、どこにあるか知っていますか?」
「すみません」私は小さく首を振った。「でも、フロアマップならそちらに⋯⋯」
「ああいや、それが⋯⋯、ちょっとした体質でね。あのフロアマップ、どういうわけか、タッチパネル式なんだ。あのタイプとは相性がすこぶる悪い。昔から、ああいう電子機器が駄目でね、しょっちゅう壊してしまって、どういうわけかね⋯⋯」
「そうですか」よくそんな体質で脳神経外科に関わるような研究ができたものだ、と思ったが、もちろん、それを口にすることはない。「それなら、私が確認してきます。どうせ暇を持て余していたので」
「本当ですか? どうもありがとう」
 彼に背を向けて、フロアマップの前まで歩いた。一度タップすると、スクリーンセーバから建物全体のマップに切り替わる。脳神経外科、という文字列は、隣の棟に書かれていた。一度その文字をタップして詳細を確認したあと、再び男性のもとに戻る。
「隣の棟でした。三階です。ロビーからエレベータに乗って、直進すれば、建物の奥に」
「ありがとう。助かったよ」男性がごく自然な動作で手を差し出してきた。
 握手を、というジェスチャに見える。さすがに躊躇ったが、この人の良い笑顔には妙な力があった。男性には、脂っぽさもない。海外で挨拶代わりにおこなわれる握手のような、清潔なビジネス感があった。私は珍しく、本当に珍しく、片手を控えめに差し出す。男性は予想どおり軽く手を握った。乾いた手のひら。
 少しだけ、男性は驚いた表情を見せたものの、すぐに笑みを見せて手を離す。
「せっかくですから、少しお話していきませんか?」
「え?」
「もちろん、お時間がよろしければ」
 表情にこそ出さなかったものの、内心では眉を寄せ、口許を歪めた。つい先ほど「暇を持て余している」と言ってしまった手前、用事を理由にして断ることもできない。しかし、どのみち暇を持て余していたのは事実だった。
「脳神経外科には行かなくていいんですか」
「あとで行きます。でも、今、君と別れてしまって、話ができなくなる損失と比べれば、この程度の遅刻、なんともありません」
「約束のお時間は、何時ですか?」
「ちょうど⋯⋯、五分後だね」
「では、五分までなら」
「ありがとう。そこでどうかな」男性はロビーの一角を指さした。簡単なラウンジのようになっており、自販機がいくつかと観葉植物、それから、丸いテーブルと少し変わった形状のプラスチックの椅子が並んでいる。
 私たちは少し距離を開けて歩き、自販機で飲み物を購入してテーブルに着席した。私は紙コップのカフェオレを買った。男性がなにを買ったのかはわからないが、彼は正面に着席すると、余所見をしながら紙コップに口をつけた。私も、カフェオレを一口飲む。
「娘がいたら、君くらいの歳かな」
「そうですか」
「そうだ、名刺を渡しておこうか」男性は胸ポケットからケースを取り出し、此方に名刺を差し出した。「怪しい者ではないよ。あ、いや、自分でそう言ってしまうと途端に怪しくなってしまうものだね」
「どうも⋯⋯」
「大丈夫、君の名前を聞き出したりしませんから、安心してください」
「はあ⋯⋯」曖昧な返事をして、男性を見た。
「君は、この病院に通っているのかな」
「いいえ⋯⋯、弟が入院しています」
「そうでしたか」男性は目を見開いた。「では、今からお見舞いに?」
「ええ、まあ、そんなところです」
「僕はね、さっきも言ったことだけれど、ちょっとした応援で来たんです。意見を求められるとか、その程度のものですよ。フロアマップも確認できないくせに、研究や治療なんてできるはずがないって、思われましたか?」
「まあ⋯⋯」答え方に悩んだ末、曖昧に微笑むにとどまった。
「そうでしょう、そうでしょう⋯⋯」男性が頷いた。「だけどね、脳というものは⋯⋯、もっといえば神経とか、意識を成立させているものは、すなわち電気信号です。本当に微弱な電位の動きで、化学物質の濃度勾配が支配されて、僕たちのすべてが支配されている。呆気ない正体だね。そこが、うん、残酷なんだけれど、とても神秘的でもある」
「電子機器を壊すことができる、ということは、相手の脳を壊すこともできる、ということですか?」
「いやはや、理解が早いな」男性は朗らかに笑った。「やろうと思えばできるのかもしれないね。もしかすると、知らぬうちに、少しずつ壊しているのかもしれない。うん⋯⋯、そう、でも、君にはできなかったよ」
「え?」
 咄嗟に、紙コップに添えた自分の両手を見下ろす。
 それから、正面の男性を見た。
「君は、此方側の人間です」男性は、力強い視線を、此方にまっすぐ向けている。「いいかい。疑問を疑問のまま抱く、ということを忘れてはいけないよ。そういうものなのか、と納得してはいけない。なぜ、と疑問に思ったらば、疑問のまま抱き続けること。それが大事なんです。間違っても、思考停止に陥ってはいけない。理解できないことを、恐れてはいけないよ」
「意味がわかりません、あの、できなかったというのは、私の脳を⋯⋯」
「壊す、というのはちょっと過激でしたね。ほんの少し刺激を与えて、記憶や感情をほんの少しだけ軌道修正しようとした⋯⋯、と言ったほうがより正確かな。僕はね、できるだけ他人の記憶に残りたくないんです。でも、できるだけ記憶に残らないようにすればするほど、ちょっとした違和感が目についてしまって、記憶に残ってしまう。なんでもそうでしょう? ですから、ほんの少し⋯⋯、ええ、本当に少しだけです。それに、こういうものは、大きなものに隠してしまうのがいちばんだ。ほら、木を隠すなら森が良いのと同じ、電気を隠すなら雷⋯⋯、というわけだね」
 正直に言って、危ない勧誘か、頭の可笑しい人だと思った。
 当然だ。現実であるはずがない。質の悪いフィクションでも、もう少し脈絡というものがある。彼の言うとおり、少し考えただけでわかることだった。
 それなのに、私は、男性の言葉を一蹴することができずにいる。
「君も、すぐに知ることになります。君がなにを成すのか」
「なにを仰っているのか、まったく⋯⋯」
「もしも、僕の力が必要になったときは、その名刺を見せてください」男性は静かに、穏やかに微笑んだ。「僕たちは何者にもならない。けれど、君のような人たちを救うことが、僕の、生きるという形です」