(0,7)

 
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 姉が僕の首に指を添えた日は、驚くほど穏やかな青空が広がる日だった。今日という日に相応しいほどの青。或いは、とてつもない皮肉のような明るさ。
 逆光のためか、姉の顔は暗くてよく見えなかった。首に添えられた姉の冷たくて細い指だけが明瞭だった。僕は自分の声で謝罪を伝えたが、姉はなにも答えない。姉がなにを考えているのか、一度もわかった試しはない。それは、この日もそうだった。
「どうして?」姉は僅かに指先に力を込めながら、そう呟いた。
 僕は、なにが、と訊ねようとして止めた。姉に示してやれるだけの答えを、僕はきっと持ち合わせていない。
 強いて言えば、生きたかった。理由なんてそれだけだ。
 脆弱な肉体に囚われて自分という意識が失われてしまうことを、僕はなによりも恐れていた。だから、姉がどう思うか、姉がこれからどうなるか、そんなことを考えられるほどの余裕はなかった。僕は、それを後悔している。
 しかし、もう一度選べるとして、自分はきっと同じ道を選ぶのだ。
 だから今、僕は何度も考えている。
 姉はあのとき、なにを思っていたのか。
 姉が今、なにを思っているのか。
 一定の機械音。
 姉さんの、不規則に揺れる荒い息。
「もう嫌、いやよ、」姉の手が、震えていた。「どうしてこんな、もっと他に、どうして、」
「姉さん」僕の声は、随分と掠れていた。「こんな、わがまま⋯⋯、迷惑かけて、ごめん」
「どうしたらいいのよ、こんな、」血を吐き出すような声だった。「もう嫌、意味がわからない、」今にも泣いてしまいそうな声だった。
「大丈夫⋯⋯、大丈夫だから」
「なにが大丈夫なのよ、こんなの、」姉の指が、皮膚に食い込んだ。「最悪、なんでこんな、」
「ごめん」
「黙って、」
「ぼく、生きたいんだ、まだ」
「うるさい、黙って、お願いだから、」
「だからお願い、ねえさん」
 一瞬の浮揚。
 微睡みのような時間があって、それから、気がつけば姉の躰に僕の意識があった。どうしてそんなことができると理解したのかは、今となってはもう思い出せない。なんとなく、という程度のものだったかもしれない。そうだったらいいな、という程度の、願望が偶然叶っただけなのかもしれなかった。
 姉にこんな我儘を言ってしまったことを、僕はずっと、後悔している。
 生きたいから、という理由だけで、僕は姉に罪を背負わせた。両親をふたりぼっちにして、そして、姉をひとりぼっちにしてしまった。僕が傍にいるからひとりじゃないだろ、なんて、とんでもない傲慢だった。そんなことに気づけない程度には、僕はなにも知らない子どもだった。
 これから先に待ち受けている長い時間を、誰にも見つけてもらえないまま生きるということを理解していなかった。姉がどう感じるかなんて、わからなかった。だって、未来に残された長い時間というものは、僕にとってはなによりも欲しいものだった。
 自分の手を見るのが怖かった。自分の顔を鏡で見ることは、もっと怖かった。声を出すときに、自分じゃない自分が、自分を演じているような感覚に何度も陥った。自分の躰に触れることが怖かった。自分の躰を意識してしまえば、僕たちは肉体に囚われていることを否が応でも意識してしまった。それが怖かった。毎日毎日、怖くて、怖くて、いつも泣いて飛び起きて、苦しい息を吐き出して、子どもみたいに泣いていた。
 どうして意識なんてものがあるんだろう、と思った。
 過ぎた時間を恐れ、これから先に待ち受けている時間を恐れる。そんな毎日だった。そんなことを忘れられるくらいに毎日が忙しければ良かったのに、僕は常にベッドの上で安静にしていることを求められた。本を読んでいても、本から顔を上げてしまえば、自分が今生きている世界に引き戻される。音楽を聞いていても、聞き終えてしまえば、現実の音が逃げようのない今を突きつける。その瞬間、戻らない時間のことを思い出して、それが泣き喚いてしまいたくなるほど怖かった。
 躰はすっかり病に蝕まれて、息をして生きるだけで苦しかった。痛みを覚える度に、自分が生きていることを自覚して怖くなった。自分がいつか、どこにもいなくなるなんて、意味がわからなかった。耐えられなかった。だから、躰を手放して生きたい、と思った。
 恐れることもなく。
 眠れずに飛び起きて、ひとりで涙を流す夜でもなく。
 目が覚めたことに喜び、逃げ場がないことに恐怖を覚える朝でもなく。ただ毎日を生きて、毎日を過ごしたかった。
 今は、ただ毎日を生きて、毎日を過ごしている。
 あの日から僕は、一度肉体を離れたためか、あの頃のような恐怖を感じたことはない。僕は意識の中に揺蕩って、ときどき目を覚まし、姉と会話をする。躰がなければできないことはたくさんあるけれど、意識の中に躰を生み出すことはできる。考えることができれば、それだけで存在する。存在とは、結局のところ、その程度のものなのだろう。
 姉の後頭部が見えた。
 寝癖は、まだついている。少し癖のある短髪。僕とよく似た、姉さん。
 いや、
 どうして僕に姉さんが見える?
 僕が見ているだけの、
 幻想?
 現実?
 手を伸ばす。
 姉の肩に手を置いたつもりだったけれど、当然、なににも触れられやしない。
 どういうことだ?
 わからない、
 けれど、これも、
 僕が姉ではないことを、証明している?
 そうだとしたら、
 幻想でも現実でも、どちらでもいい。
 僕は僕で、
 姉さんは姉さんだ。
 姉さんが生み出した、姉さんの意識なんかじゃない。
 でも、
 姉さんの意識が、姉さんの背中を考えることができたら?
 姉さんは、姉さんの背中を見ることができる?
 どうすれば証明できる?
 どうすれば、
 姉さんはひとりじゃないって、
 姉さんが後悔することはなにひとつないんだって、
 僕は伝えられる?
「なに言ってるの?」あの日、姉さんは僕にそう訊ねた。「私になにを頼んでいるのか、お前は、わかっているの?」
 わかってる。
 わかってる、つもりだったよ。
「嫌、」
 姉さんの声。
「もう嫌、助けて、」
 混濁。
 滲んで、漏れ出した、
 境界線を失ったなにか。
 どうしたらいい?
 どうすればよかった?
 どこまで戻れば、僕たちはやり直せる?
「なにを言ってるの?」
 僕はそう言った。僕は少年を見ている。無骨な機械が添えられたベッドに横たわった、細い少年。穏やかな弱い笑み。
「私になにを頼んでいるのか、お前は、わかっているの?」
「姉さんにしか頼めないんだ」少年は言った。思ったよりも明るい声だった。「姉さんがいい」
「馬鹿なこと言わないで」僕は言う。
「もうどのみち、時間はそんなにないと思うんだ」少年は少しだけ窓のほうに顔を向けた。「なんとなく、大丈夫だっていう自信がある。ねえ、これは、僕が生きるためだよ、だから⋯⋯、」
 大丈夫、という言葉は、少年の激しい咳き込みで途切れた。しばらくして、少しだけ笑いながら、呼吸をして、少年が此方を見た。
「僕を殺して、姉さん」
 突如、心臓が妙な速度の上がり方をした。
 窓の外は、神さまが僕を嘲笑っているかのように晴れ渡った穏やかな青。
 意味がわからない。
 もうどうにでもなればいい、いっそ全部終わらせてしまえばいい、
 嫌だ。
 違う。
 そんなことをしたいんじゃない、
 そんなことを、望まないで。
 僕に、望まないで。
「どうして、」
 少年の首に、手を伸ばした。
 細い首だった。白い首だった。両手を添えて、指の腹が、首に触れる。
 軽く握った。
 終わってしまう?
 違う、
 僕が、終わらせてしまう?
 こんなことが、僕の成すこと?
 嫌だ、怖い、違う、力を入れたくない、助けて、終わらせたい、違う、終わらせたくない、もうどうにでもなればよくて、こんなにも呆気ない、なにもかもを放棄したくて、違う、嫌だ、握り締めたくなんてない、
 違う。
 違うのに。
 これは、生きるため。
 本当に?
 こうすれば僕は、あの約束を、次こそ、
「大丈夫⋯⋯、大丈夫だから」少年の声。
「なにが大丈夫なのよ、こんなの、」僕の指が、皮膚に食い込んだ。「最悪、なんでこんな、」
「ごめん」
「黙って、」
「ぼく、生きたいんだ、まだ」
「うるさい、黙って、お願いだから、」
「だからお願い、」
 そして、一瞬の浮揚。
 暗転。