第七章 小雪

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 砂利の音。それもひとりではない。複数の足音だった。
「ねえ、こっちに出てきてくれない?」外から、聞き覚えのある男の声がした。「あれ? おーい、聞こえてる? お土産あるんだけど。その建物の中にいるよね? なんなら、僕がそっちに乗り込んだげよっか?」
 真崎のほうを見る。真崎は頭を横に振ったらしい。
「せっかく待ってあげたのに、君たち全然来ないんだもん」此方が息を殺している中、男はひとり、朗々と声を張り上げている。「仕方ないから、コノエちゃんとの約束破っちゃった」
「狭霧、動くな」まだ動いていないにも関わらず、先を読んだかのように、真崎が制止してきた。「オレが先に出る」
 真崎は一度、後ろを振り返って住職たちに合図を出した。僧侶らしい男がひとり客間を出ると、すぐに、靴を手にして戻ってくる。畳の上で素早く靴を履いた真崎は、錫杖を片手に、ぶち抜かれた客間の壁から外に出た。
「久遠さま」法衣姿の男が近づいてきて、此方に靴を差し出した。自分のスニーカーだった。ローファーを履いてこなくて良かった、と妙に冷静な思考が頭をぎる。
「あ、やっと出てきた⋯⋯、ん? 君がクオンくんだったっけ? 違うよね?」
 外から聞こえてくる男の声を聞きながら、靴を履いて立ち上がり、慎重にそちらに向かって歩く。先に出る、ということは、真崎が出たあとであれば自分も動いていいということだと勝手に解釈をして、誰に聞かれたわけでもない正当性を頭の中で主張した。
 外には警戒した姿勢のままの真崎と、他にふたり。ひとりは、少し離れた場所に立っている。もうひとり、手前にいるらしい男は、ちょうど真崎で隠れる位置に立っていた。
「あ、そうそう、君だ」手前の男が、顔を傾けて、真崎の躰越しに此方を覗いた。「君のほうだよね、クオンくん」
「待て、狭霧、見るな!」真崎の焦ったような怒声に、一瞬、足が止まる。
 けれど、それよりも早く。
 この目は、歪まないものを捉えていた。
 男は、担いでいたものを下ろし、無造作に投げ捨てた。自分は、それから目を離せない。変色した赤色に塗れた、青白い肌。疎らに広がる、汚れた黒い髪。
 歪んでいない。
 人形のようにさえ見える。
「はい、お土産」男は楽しげに言った。「いやあ、ほんとはさ、これでも、君が来るまで我慢しようと思ってたんだよ。でも、僕に我慢とか、土台無理な話なんだよね。それに、彼女も意外と普通でさ。想定内の反応っていうか、想定よりもつまらなかったというか。全然悲鳴も上げてくれなくて⋯⋯、いや、どうだろ。もしかしたら、あれって痛みのショックでトんでただけなのかな。どう?」
「俺に話を振るな」奥に立っていたもうひとりの男が言った。「反吐が出る」
「正直、もう少し楽しめると思ってたんだけど、なんかすぐに飽きちゃって⋯⋯、だからまあ、彼女との約束を破ってみたり、こうして君の許に持ってきてあげたわけだけど」
 男は、力なく横たえられた彼女に片足を乗せた。脇腹に足を乗せて、数度、揺すってみせる。
 近衛だった。
 見間違えるはずもない。
 薄く開いた唇は動かない。瞼も、閉じられたまま動かない。血に塗れた彼女は、男に足を乗せて揺すられても、無抵抗のまま。
 ただ、揺すられている。
「この子が最後に言った言葉、教えてあげよっか」
 耳鳴りがする。
 頭が痺れている。
 土埃で汚れた髪。こびりついた血。顔面のほとんどが、血に濡れている。制服はそこかしこが切り裂かれ、白い肌を裂く生々しい傷跡が、嫌というほど鮮明に見えた。
 男が、彼女を軽く蹴り飛ばす。
「君が間に合ってたら、聞けたかもね」
「近衛、」
「可哀そうにねえ。この子を囮にして、僕たちの足止めをして、その間に君は無傷で逃げようって計画だったんだろ?」
「ちが、」
「違わないでしょ。少なくともそっちの彼は、そうみたいだったけど?」
「違う、」
「つまり⋯⋯、コノエちゃんは、色んな人から頼まれて、願われてたってことだ」男が可笑しそうに笑った。「頼むからどうか死んでくれ、ってね」
 斜め前に立つ真崎の背中を見る。
 顔は見えない。表情はわからない。先ほどから、なにも言わない。けれど、躰の縁が揺れているのが視えた。
 理解した。
 理解してしまった。
 これが、家の命令だったのだ。
 近衛を見捨てろ、という命令だった。彼女を身代わりにして、時間を稼ぎ、俺を連れて逃げろという命令だった。
 真崎は、それを、良しとした?
 彼女は、それを、受け入れた?
「ああ⋯⋯」
 頭が痺れ、
 視界が揺れる。
 力が抜けた。
 立っていることもできなくて、
 膝をつく。
「あ、ッああ、」
 一体、彼女が何をしたというのか。
 一体、彼女が何をしたというのだ!
「ごめんね」穏やかな、男の声。「なにしても死なないって聞いてたから、ちょっと加減を間違えちゃってさ。この感じだと、もしかしたら、間に合わないかも」
「ッあ、」
 崩壊した。
 自分の喉が、叫び声を上げている。
 爪が剥がれてしまいそうなほど、地面に指を食い込ませた。そのまま握りしめたところで、指に残るのは僅かな砂。
 血が滲み出るほど、唇を噛み締めた。そのまま噛み切ったところで、出血など、彼女に比べればあまりにも些末。
 もう、自分が何を叫んでいるのかもわからなかった。
 怒り。──そう、これは怒りだ。
 後悔。──そう、これは後悔だ。
 目の前の男を恨んだ。己の傍に立つ男を恨んだ。己の家を恨んだ。彼女を否定した全てを恨んだ。けれど、何よりも。
 己自身を、恨んだ。
 俺にできることなど、なにひとつなかった。
 俺は、一度だって、彼女を守れたことなどなかった。
 歪まない世界を見て、彼女に救われて、
 だから、次は自分が救いたかった。
 なにも背負えなくても、なにもできなくても、
 彼女の隣に立っていることくらいは、できると思っていた。
 あのまま抱き締めて、逃げてしまえば良かった。
 救えなかった。
 救えるはずもなかった。
 なにもできない。 
 許せない。
 許せなかった。
 もうなにも、誰も、許せなかった。
 俺は、
 俺は、
    俺  は、
 彼女のために、
 なにも、
 できなかった、
 ────、いや。それは違う。
 貴方は、彼女の為に何かを為しえた。それだけは間違えてはいけない。
 私は、──俺は、彼女に、──貴方は、彼女の支えだった。
 それを、貴方自身が見失ってはいけない。
 貴方の言葉で、貴方の行動で、彼女が救われてきたことを。それが彼女を変えたことを。それを、貴方だけは、否定してはいけない。
 ──俺が、彼女を、──そう、貴方は、彼女を救った。
 それは、彼女自身が、貴方に告げていたはずだ。
 それを、貴方だけは、否定してはいけない。
 ──近衛、──大丈夫。私が、彼女を助けよう。
 貴方が守りたい者は、私が守りたい者と、似て非なるものであるとしても。
 それでも良い、というのなら。
 全てをかなぐり捨てても尚、彼女を選ぶというのなら。
 私は、それを首肯しよう。
 久遠狭霧。
 私であって、私でない者。
 貴方の最たる願いを、
 私に、告げろ。
 ──────────、近衛を、助けたい。
【承知した】
 俺の声。
 けれどそれは、俺ではない者の言葉だ。
 誰だ。
 お前は、誰だ?
 目眩がして、
 僅かな力。
 軽く、後ろに引っ張られた。
 抵抗することもできずに、
 そのまま、後ろに倒れる。
 けれど、地面に衝突することはなかった。
 なにもない。
 ただ、
 渦を巻いて、
 浮揚。