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少女の言葉の意味を考えるより先に、自分はすぐに走り出し、観察病棟に戻る。当然、先ほどの話は俺を此処から追い払うために彼女が考えた出鱈目だと考えるのが妥当だった。しかし、それを嘘だと断言できない自分がいる。
病棟に駆け込むが、そこには看護師も、若い男の姿もなかった。周囲を見渡しながら高坂八束の部屋に向かい、ノックもせずに扉を開く。
なにもない。
備え付けのベッドはむき出しの土台だけ。机の上にも、窓の傍にもなにも置かれていない。カーペットも引き剝がされており、妙に綺麗なフローリングが広がっている。
「ちょっとちょっと、そこは空室ですよ。こんなところでなにをしているの?」振り返る。看護師がいた。「あら? 貴方、えっと⋯⋯」
「垣田さん」看護師に詰め寄った。「高坂先輩のことを、覚えていらっしゃいますよね?」
「高坂先輩?」看護師は目を見開いた。「貴方の学校の先輩かしら? ごめんなさいね、でも、此処にはそんな名前の患者はいません。きっと、病棟を間違えて⋯⋯」
「本気で言っているのか?」
「貴方こそ⋯⋯、いったいなんのお話ですか?」彼女は、怪訝そうに眉根を寄せた。「それと⋯⋯、その方も、お知り合い?」
「え?」看護師の視線の先を慌てて追う。
自分の後ろに、先ほどの少女が立っていた。
「これでわかったでしょう」少女は腕を組むと、少し顎を上げて此方を見据える。「長居は無用です。行くわよ」
「おい、待て、」
直継、と口にしかけて、咄嗟に言葉を呑み込む。
その名は、魔術界におけるタブーだ。目の前の女は、その名を平然と名乗った。たしかに、あの建物が直継のものであるならば、たとえこの病院の上層部でも手出しはできない。しかしそんなことよりも、当時の自分は、直継と呼ばれる組織が本当に実在していた、という事実に驚きを隠せなかった。
そして今。
自分が直継と手を組んでいるなどとは、やはり当時の自分は思い至りもしなかっただろう。
古めかしい洋館の二階、その突き当たり。そこに直継みつぐの書斎があった。俺は、腰かけていた書斎のソファから立ち上がり、机の傍を通って窓辺に立った。
窓から、外の木立を一瞥する。
都内某所。
広大な敷地の奥、並び立つ木立の中で、この洋館は重い沈黙と共に佇んでいる。
「直継、か⋯⋯」
「今さら、怖気づいた?」俺の呟きを拾った少女は、書斎の椅子を回転させて、躰を此方に向けた。「それとも⋯⋯、わたしたちの組織に、なにか文句でもあるのかしら」
「まさか」直継みつぐの問いかけに、鼻を鳴らして笑う。「お前たちがろくでもない組織であることなど、とっくに知っているとも」
「禁忌を犯してはならないのは、犯せるものであるからに他なりません」少女は左右対称に唇を動かした。「犯すことができない事象であるのならば、犯してはならない、などという戒めが生まれるはずもないからです」
「禁忌を犯したから、お前たちをろくでもないと称したのではない。君たち直継の目的でもある魔術的禁忌とは、その発動のために儀式を執り行う必要がある。そして君たちは、あくまで儀式に必要な『彼女』を用意するために、法的、或いは生命倫理における禁忌を犯したにすぎない⋯⋯、そこが、ろくでもない、と言っている」
少女は表情を変えることも、微動だにすることもなかった。人形のように静止して、此方を正面から見据えている。
完璧なバランス。
崩れることを知らない対称性が、彼女から有機的な匂いを失わせている。
「しかし、成功体だったはずの『彼女』を喪った挙句、その器⋯⋯、近衛斎の逃亡を許し、三年が経過しても尚、捕獲することができずにいるとはな」
「研究員たちは、『彼女』が既に完全に喪われていると考えているようだけれど、わたしはまだ断言できない、と考えています。それに、最大の問題点も残されている。だから、わたしの他に唯一あの出来事を記憶している貴方に協力を依頼しました。まず、貴方は『彼女』が本当に消滅しているのかどうかを確かめること。消滅しているのであれば、近衛斎を速やかに処分し、次のサンプルを作製する。近衛斎だけであれば、なんの脅威にもなり得ません。せいぜい遺伝子の流出、或いは人工細胞の流出を危惧する程度です。どのみち、そのような問題も、いずれは些事となります」
「だがそれも、高坂先輩の存在を消去した点を無視すれば、という話にすぎない。あの術式⋯⋯、いや、確実に魔法だ。そう⋯⋯、そこだ、それが可笑しいと言っているんだ。誰も、あの看護師でさえも、彼女についてなにひとつ記憶していない。いや、記憶だけではない。戸籍すら見つけられない。病院のカルテからも、彼女の部屋も、私物も、彼女が存在した痕跡の全て、全てだ。それが失われている。そんなことが本当に可能なのか? そんなわけはないだろう。世界から存在を丸ごと消去する、など⋯⋯、魔法に他ならない。ならば、たとえば、君がその魔法に届き得る魔術を行使して記憶を消した。そして、直継の組織力を駆使して社会的な情報を抹消した。此方のほうが、よほど現実的な可能性だと思わないか?」
「わからないから、貴方にその件を任せたの」
「つまり、例の術式の行使が、近衛斎によるものか、それとも本来の意識であるはずの『彼女』によるものかもわからない、ということだな?」
「けれど⋯⋯、近衛斎は魔臓を保有していないのよ」彼女は形の良い眉を僅かに寄せた。「魔術どころか、魔力の認識も不可能なはずです。恐らく、躰のほうではなく『彼女』という概念が持つ力ではあるのでしょうけれど⋯⋯、いくらなんでも強大すぎる。ええ、貴方の言うとおり、我々の儀式を完遂するためにも、この問題については、いくつかの不明点を解決しておく必要があります」
「儀式の完遂のため⋯⋯、か」顔を顰めて吐き捨てる。「高坂先輩は、君たちの悲願成就を阻む危険因子と認定されたがゆえに、拉致された挙句、自害したわけだ」
「計画を実行するにあたって、ひとり、協力者がいるの」直継は、瞬時に話題を切り換えた。
「協力者?」
「そうです。貴方には、先に伝えておくべきだと思った」
「しかし、近衛斎が自ら囮としてその身を明け渡すことは明白だ。協力者など必要か?」
「わたしたちの儀式には、まず、大量の魔と、近衛家にご神体として保管されている剣が必要です。だけど、これはどちらも工面が難しいというだけで、用意は可能です。それから、『彼女』と、そしてもうひとり。このふたりを、同時に揃えなければならない。特に『彼』は、この国によって奪取され、処分がおこなわれています。本体が手許にない今、我々が完全に再現することは難しいでしょう」
「彼だの彼女だの、曖昧な指示語の多いことだ」肩をオーバに竦めてみせる。「なぜ、彼らの名を呼ばない?」
「魔術師であれば、貴方も、名前が与える影響力を知っているはずです。認識の持つ力を、見縊ってはいけないわ」少女は片手で髪を払った。「この計画には、もうひとつ目的があります。そのための協力者です。近衛斎を囮として呼び出し、彼女を捕獲する目的と同時に、『彼』の封印を解く鍵を見つけること。これを同時に達成するために必要な協力よ。だから、うまくやり過ごして」
「俺は、君のことを信用しているわけでも、信頼しているわけでもない。ただ、互いの目的のために協力しているだけだ。それと同じことだよ。俺の邪魔さえしなければそれでいいと、その協力者とやらに伝えておけ」
「邪魔をする相手だから、先に伝えているの」
「まさかとは思うが、その協力者⋯⋯、あのふざけた偽名の殺し屋じゃないだろうな」
「そのまさかです」
「最悪だ」苛立ちを抑えきれず、舌打ちをした。「誰の差し金だ? まったく⋯⋯、あの男に『協力』という概念が存在しているとでも、本気で思っているのか?」
「『彼女』を生み出すことに成功した以上、『彼』が存在することはまず確実です。つまり、完全な処分ができず、封印されていたということになるわ。厳重な封印が施されていたようだから、今までその意識が表層に上がることはなかったけれど、近衛斎と接触したことで、恐らく、その封印が揺らぎ始めている。さらに揺さぶるための協力者として、伊勢残を選んだ。彼が適任だと判断したのはわたしです」