第七章 小雪

     4/君島操

 三年前、初夏。
 その日も、いつものように高坂八束のもとを訪ねた。しかし、観察病棟に足を運ぶと、此方に慌てて駆け寄ってきたのは看護師だった。恐ろしいものを見たといわんばかりの悲壮な表情を見せるや否や、彼女はその場に力なく崩れ落ちる。
「垣田さん?」自分も片膝をつき、看護師の顔色を窺った。「どうしました?」
「あの子が⋯⋯」看護師は何度か息を詰まらせながら、ようやく声を出した。「八束ちゃんが、あの子がね、いきなり⋯⋯、此処を出ることになって⋯⋯」
「それは⋯⋯、退院した、ということですか?」
「いえ⋯⋯」
「たしかに、高坂先輩の精神状態は当初よりもかなり安定するようになりました。しかし、それだけです。いくらなんでも、退院という判断は早計かと⋯⋯」
「違うのよ」ついに看護師は両手で顔を覆った。「上の判断だって⋯⋯、そう言われたけど、信じられない、あんなところ⋯⋯」
「病院を移動したのですか?」
「垣田さん」廊下の奥から、若い男が早足で此方に駆け寄ってきた。「今、向こうで、上に連絡を取っているところです。ですから、どうか⋯⋯」
「どういう状況ですか?」
「なにをしている施設か、わからないの、でもね、あそこは⋯⋯、噂をしちゃいけない場所なのよ、触れてはいけない場所⋯⋯、一度入ってしまったら、戻ってくることはできないって⋯⋯」
「あれは、移動なんてものじゃない」看護師の隣で腰を屈めた男は、眉を顰めて呟いた。「誘拐だ。拉致同然の手際だ」
「どこですか?」男に訊ねる。「この敷地内にある施設だと受け取りました。どこですか? 時間は?」
「三十分ほど前のことです。でも、垣田さんも仰っていたように⋯⋯、あの施設を知ること、接触することはできません。許されていません」
「俺は此処の人間ではない。よって、その暗黙のルールに縛られることもない。早くしないと高坂先輩が危険です。急激なストレスに耐えきれず、反動により暴発する危険性もあります。彼女にかかる負担は計り知れません」
「森の⋯⋯」
「垣田さん!」潜めた声で、男が鋭く制止する。
「後ろ、少し、山になっているでしょ、森の奥に⋯⋯、山を上って、一本道だから⋯⋯」
「駄目です、君島さん!」
 男の制止を無視して、観察病棟を飛び出した。看護師が言っていたとおり、病棟の裏手には森が広がっている。森に踏み込み、緩やかな傾斜の一本道を駆け上がる。走りながら坂道を上っていくと、切り開かれた広大なスペースが見えてきた。行く手を阻むように、巨大な鉄柵が連なった高い塀が一面に広がっている。その奥に、地図にも掲載されていない建物が二棟。院内マップでさえ、この辺りは森とだけ表記されていたはずだ。無機質な外観の白い建物で、あまり高さはない。
 塀は、意外にも簡単に開き、勝手に出入りすることができた。二棟の内、まずはどちらに向かうべきか思案しながらまっすぐ突き進んでいると、途中で数人の男に呼び止められる。
「道に迷われたのですか?」白々しい物言いだった。「恐らく、目的地は、あの道を下りたところに⋯⋯」
「先ほど、少女を此処に連れてきたはずだ。貴様らが連れ出したことはわかっている」男の言葉を遮りながら足を止めた。「どちらの建物だ?」
「失礼ですが、いったい、なんのお話ですか?」
 男は丁寧に訊ねながら、魔術を発動させようと手を動かしたが、男の肉体を駆け抜ける電気信号よりも先に省略詠唱を口にして男の躰の動きを止める。
「答えろ。答えるまで、貴様の動きは此方の制御下だ」
「契約魔術か?」男が顔を顰めた。「まさか⋯⋯、いや、そうだ、それほど強力なものでもないはずだ」
「答えろと言っている!」
 突如、背後から羽交い絞めにされた。魔術による攻撃にばかり意識を向けていたせいで、気づくのが遅れてしまった。だが、後ろにいる男よりも、自分のほうが、身長も高く体格も良い。何度か暴れるようにして藻掻き、男の腕を勢いよく振り払った。
「暴発するぞ!」目の前の男から目を逸らさずに叫ぶ。「わかっているのか、あの力の制御を失うことが、どれほど⋯⋯」
 建物の、扉が開いた。
 二棟の内、より高さの低い建物のほうだった。勢いよく解き放たれた扉の向こうから、転がるようにして飛び出してきたひとりの少女。白いワンピースのような、最低限の機能にとどまった衣服。その衣服と、連続する白い肌。長い黒髪。何度か咳き込みながら、危うい足取りで此方に向かって走ってきた。
 目の前の男は躰を動かせず、もどかしそうに顔を歪める。先ほど俺を羽交い絞めにした男も混乱しているのか、どちらを優先すれば良いかわからない、といった様子だった。
 駆け抜けていく少女と、目が合った。
 青い瞳。
 しかし、その青は一瞬にして遮られ、そしてあっという間に少女はすぐ傍を走り去っていった。数秒の間ののち、同じ建物から、男たちが次々と飛び出してくる。彼女を追いかけて、やはり此方に視線を寄越すことなく、男たちもまた走り抜けていった。
「なにが起こった?」男が呟く。「今のは、まさか⋯⋯」
「青いか?」すぐ後ろで、男が言った。
「なにをしているの?」歯切れの良い声が聞こえて、俺と男は同時に顔をそちらに向ける。
 いつの間にか、三メートルほど離れた位置に少女が立っていた。
 先ほどの少女とは違い、丁寧に整えられた茶髪の少女だ。白いシャツにワインレッドのネクタイを締めている。同じ色をしたチェック柄のスカートのプリーツが揺れて、数秒後、静止した。
「この男、侵入者のようで⋯⋯」男のひとりが答えた。
「貴方⋯⋯」少女は此方を見ると僅かに目を見開いたが、すぐに目を伏せて緩く頭を振った。「いえ、なんでもありません。それより、貴方は高坂八束を知っていますか?」
「やはりお前たちか」一歩、足を前に踏み出す。「それは此方の質問だ。なぜ知っている? 高坂先輩をどうするつもりだ」
「覚えているの?」少女は、怪訝そうに眉を寄せる。「まさか⋯⋯」
「どういう意味だ? お前はなにを知っている?」
「お嬢さま、このような男の戯言に付き合う必要はありません」男が口を挟んだ。
「いえ。彼と、少し話をします」
「居場所を吐け」
「高坂八束は、先ほど、自ら鋏で喉を突きました」
「は?」
「自害しました。けれど、彼女⋯⋯、先ほど逃げ出したサンプルがいたでしょう。彼女が、なんらかの魔術らしきものを発動した結果⋯⋯、どうやら、彼女の存在ごと消去されてしまったようです」
「自分がなにを言っているのか、わかっているのか?」
 突拍子もない話だった。今どき子どもでも語らないような、わかりきった不可能。笑い話にもならない、失笑を買うだけの妄言を、この女は当然のように口にしたのだ。
「わたしと貴方以外に、今、彼女のことを記憶している人間はいません。貴方が今も記憶を保持できている原因はいくつか挙げることができますが、お聞きになりますか?」
「ふざけるな!」
 魔弾を放つ。
 相手を指差す、たった一工程。
 詠唱は僅か三文字。
 しかし、少女はこともなげにそれを振り払った。飛んでいる蚊を振り払う程度の、ごく自然な仕草で、渾身の魔弾を彼女は避けた。
「消去? は⋯⋯、莫迦な。先ほど、つい先ほどだ。看護師も、男も、彼女のことを覚えていた。連れ去られたことまで明確に記憶していたんだぞ。存在の消去などと、笑わせるな、そんなもの⋯⋯」
「では、確かめられてはどうですか?」
「お前は誰だ?」
「わたしは、直継みつぐです」今、少女の声だけが、この場を支配していた。「わたしの名前を、よく覚えておいて」