第七章 小雪

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 駐車していたトラックの荷台に乗り込んだ瞬間、トラックが発車した。揺れる暗闇の箱の中で、震える足を抱えて座る。
 苦しい息を、必死に吐き出した。
 ひとり。
 これが、独り。
 問いかける。
 けれど、返事はない。
 『私』の自我だけが残ってしまった。この器の、『彼女』の意識が喪われてしまった。たった数時間の逃走のために。再び捕らえられ、次こそ、すぐに処分される。時間の問題だった。
 ならば今、私はどうして。
 どうして逃げた?
 今すぐに下りて、引き返せばいい。そうして『彼女』もいない今、終わらせてしまえばいい。なのに、どうして。
 足の震えが、全身に伝播する。
 息はまだ苦しい。吐き戻しそうだった。
 会える?
 誰に?
 私は、誰に会える?
 私は、会いたい?
 わからない、
 わからない。
 私の意識はそのまま、闇に引きずり込まれた。
 ずっと、渦を巻いている。
 不規則に揺れる躰と、
 目眩。
 もう一度目を開けたとき、トラックは停車していた。
 外界は、遠く騒々しい。
 トラックから降りようとして、足が縺れた。アスファルトに躰を打ち付けたが、幸い、目撃はされていないようだった。できるだけ早く手をついて上体を起こし、とにかくトラックから離れるために歩いた。あの、噎せ返るような空気を吸った。苦しくて、また咳き込んだ。
 外は、暗闇だった。
 インプットされた知識として知っている。
 これが、夜。
 初めて見た夜だった。
 どこまで逃げられるだろう。
 足も、意識も、肺も、心臓も、もう限界を迎えていた。
 必ず、会える?
 でもそれは、きっと、『私』が会うべき人ではない。
 きっと、『彼女』が会うべき人だ。
 数時間。
 歩き続けた。
 足を引き摺って、ひたすら歩いた。
 途中で、空を見上げた。外の暗闇には、光があった。星が、限りなく弱く、それでも、瞬いている。
 『彼女』が、戻ってくるまでに。
 『私』が生きて、生き延びることで。
 『彼女』がいつか、
 誰かに会えるように。
 生きてもいい?
 生きても、許される?
 いつの間にか、躰が濡れている。立ち込める匂い。雨。星はまだ瞬いていて、けれど、上を向いていられるほどの体力は残されていなかった。
 倒れ込む。
 吸い込んだ泥の匂い。
 雨。
 暗闇。
 一瞬のノイズと、
 目の前に広がる青。海。
 眩しさに目を細めていると、隣で空を見上げていた青年が、不意に此方に顔を向けた。
 昼の青。
 見えないけれど、星は瞬いている。
 星になりたいと思った。
 星になれたら、
 あの人は、空を見上げるたびに、私を思い出してくれる?
「無理ね」私が、言った。「私は天国には行けないもの」
 目を開けた。
 同時に、酸素を求めて喘ぐ肺と、早鐘を打つ心臓を認識する。何度か大きく呼吸を繰り返したが、意識はまだ、過去の映像に囚われたままだった。全身が、薄く汗ばんでいる。此処は、ケージの中ではない。トラックの中でも、泥の上でもない。自室の、白いシーツの中。柔らかなベッドの上。
 頭痛がした。思わず片手で額に触れる。指先は冷たく、どうやら、少し震えているようだった。
 夜の闇。
 瞼を閉じた裏側の静寂。
 いつから、私は暗闇に恐怖を抱くようになってしまったのだろう。
 満足に眠ることもできず、こうして飛び起きては自らの躰を掻き抱く日々。全身の微細な震えが止まる気配は、いまだない。四肢の端々を、奇妙な感覚が波のように走り抜けるたびに、目の奥に熱が集中する。
 あの人に、出会ってからだ。
 ふたりに出会ってから、私は眠ることもできなくなった。
 検体として生きた。切り刻まれた。『彼女』のからだに突如として芽生えてしまった自我わたしは、生を望まれない。尊厳も倫理も知らない場所で、処分の日まで生かされていただけの日々を思い出した。
 当たり前のように、『私』は死を望まれていた。あの狭い世界しか、私は知らなかった。あの小さな場所だけが私を取り巻く全てだった。だからこそ、予定された死を恐れることはなかった。
 なのに。
 今は、あの日々に戻ることを恐れている。
 またあの場所に戻ることを、恐れている。
 予定された死を直視できずに、
 躰は震えている。
 目の奥が熱い。
 口からは、声にならない息が零れる。
 『私』にできることは、命を絶ち、ふたりの前から姿を消すことだけだ。それでもいい。こんな『私』にできることがあるなら、なんだってする。『私』が生まれた理由などどうでもいい。
 ただ。
 私も、あの人の幸せの礎になりたかった。
 たとえ、ふたりの記憶に残らないとしても。平凡な日々を過ごし、真っ当な幸せを掴んだ彼らを、私は見届けることができなくても。彼らの未来のどこにも、私はいないのだとしても。
 ただひとり、唯一、私に「生きろ」と言ってくれた貴方。
 生きていてもいいのだと、生きてほしいのだと言ってくれた貴方。
 その言葉だけで充分だ。
 手を握って、名前を呼んで、一度だけ抱きしめてくれた。
 あの熱だけで、私が生まれた理由なんて、充分だった。
 息が苦しい。
 心臓が早鐘を打つ。
 けれど、それも、もうすぐ終わる。
 顔を上げて時刻を確認した。深夜三時を回っている。ベッドから足を下ろしてその場に立ち、自室を見渡した。久遠寺から此方に戻ってきたあと、数少ない私物は全て捨てた。唯一だった私服も捨てた。
 机の上には、数冊の本が置かれている。
 明日、これを彼らに返却すれば、支度は全て終わりだ。私という人間がいた痕跡を、できるかぎり消しておく必要があった。彼らの記憶が封じられたあとは、この地を離れて地元に戻り、向こうの高校に転入する手筈になっているのだと聞いている。
 手紙ひとつ、残せない。
 言葉ひとつ。
 願いひとつも、残せない。
「ごめんなさい」なにもない部屋に、私の声が響いて、消える。「貴女を取り戻せないまま⋯⋯、貴女の願いも、私が奪ってしまったわ」
 答える声は、どこにもいない。
 机の抽斗を開けた。中には手紙が入っている。宛先も送り先もなく、切手も貼られていない真っ白な封筒を手に取り、手紙を開いた。

  一度だけ。
  此方の要望を受け入れるのであれば、貴女を囮とし、
  彼らに手出しせず、無事に見逃すことをお約束しましょう。

 手紙を折り畳み、指をかけて、千切った。千切って、千切って、破り捨てる。久遠寺に呼び出されるよりも先に、伊勢残から届けられた手紙。指定されている日付は明日。時刻は、午後三時半。
 二十四時間後。
 私のねがいが終わる。
「さようなら」誰にも残せない言葉を呟いて、そして、私は微笑んだ。