第七章 小雪

 
     1/近衛斎
 
 冷たく薄暗いグレイの壁。鉄格子の扉。人工的な静寂の中、部屋とも呼べぬ空間の隅で、膝を抱えて座っている。消灯された実験棟に光はない。けれど、この場所では、光が灯された瞬間こそが地獄の始まりだった。
 自分が他の実験体よりもかなり優遇されていることには、意識を確立してほどなく気がついた。遺伝子を目的どおりに欠損させた脳摘出用のサンプルとは隔離されていたし、生後二十四時間以内の幼児を使用して実験するために設けられた繁殖用の個体群とも異なるレーンに位置している。毎日、栄養剤を口にすることができた。切創の回復に要する時間を確認されたことこそあれど、生きたまま足の骨を折られて神経を抜き取られることもなかったし、電極を刺されたり、目を縫われたまま生かされることもなかった。現に、今の今まで、こうして四肢の欠損もなく生き永らえることができている。ときどき細胞を採取された程度。あの世界の中では、非常に恵まれた立場だったといえる。
 けれど、それも、もうすぐ終わる。
 『彼女』との約束を守り続けてきた。その結果、自分は明日、殺処分される。こうなることは明白だったのだから、やはり、今からでも『彼女』が表に出さえすれば良い。そう提案したが、『彼女』がそれを受け入れることはなかった。
【私が表に出てしまえば、貴女が消えてしまいます。それだけは、避けなければならない】
「彼らが求めているのは貴女です。私という自我は望まれていない。そもそも、この躰は貴女のものなのですから」自分の裡に向けて、このときはまだ、語りかけることができた。「遠慮する必要も、躊躇う必要も、貴女にはありません」
【大丈夫です。私がどうにかします。この躰を、貴女を、処分させなどしません】
「よくわかりません。私は、このまま意識を確立し続けることに、意義も、意味も、いまだ見出すことができていません」
【いずれわかります】彼女の声が、柔らかなものに変質した。【大丈夫⋯⋯、ですから、貴女はこれからも、私を表に出すことはできない、と答えて。私が今もこの躰の中で生き永らえていることを、悟られてはいけないわ。そうすれば、彼らは、無理にでも私を表に出そうとするでしょう。貴女という自我を殺すことになっても、躊躇わずに】
「いいえ。それが最善です」
【そんなことはないわ】頭の裡に響く、彼女の声。否、それは、自分と寸分違わず同じ声だ。【きっと⋯⋯、きっと、貴女という自我が生まれたことには、必ずなにか、理由があるはずです】
 僅かなノイズと共に、実験棟に白い灯りが点いた。すぐに、防護服に身を包んだ人間が数人、ケージを乗せた台車を押しながら入室する。レーンの手前から鉄格子の扉を開けた彼らは、運搬用のケージに実験体を移動させた。その作業は三十分ほど続いた。ケージは、小型のコンテナの中に収納される。その後、彼らはいつも、飼育室のすぐ外にある専用のエレベータにコンテナを載せて、指定された動線のとおりに実験棟を後にする。
 そうして運ばれた彼らは、外部の実験場で検体となる。この建物を出てしまえば、誰ひとり此処に戻ってくることはない。
 自分はといえば、補給された栄養剤を口に含み、毎日同じ質問を繰り返す防護服姿の研究員に、やはり毎日同じ答えを返す。ただ一言、「彼女と交代することはできません」と答えるだけだ。『彼女』が望んだ答えを述べるだけ。研究員の眉が数ミリ動かされたのが、防護服の目許のビニル越しに確認された。恐らく、もう一度『彼女』を生み出す実験へのコストと労力に思いを馳せてのことだろう。
 口腔内の細胞を採取され、髪の毛を乱雑に数本引き抜かれたあと、彼らが退室したことを確認してから、部屋の隅で膝を抱えて息をした。静かに呼吸を繰り返す。遠くから、悲鳴が聞こえて、楽しげな子どもの声が聞こえて、泣き喚く叫び声が聞こえて、猥雑な息遣いと音が聞こえて、それから。
「『彼女』はまだ、貴女の中にいます」初めて耳にした、少女の声。「そうですね?」
 檻の向こうに、少女がいた。自分の体躯とあまり変わらない。異質だった。防護服を身に纏いもせず、冷徹な瞳で此方を見つめている。
「いいえ」
「わたしからなにも感じないというの?」
 一瞬だけ、裡の『彼女』に意識を向ける。『彼女』は僅かな焦りと共に、目の前の少女を見ていたようだった。
「お嬢さま」防護服を着た研究員が、腰を屈めて少女に呼びかけた。「失礼します。中にいるサンプルを出しますので⋯⋯」
「まだ、わたしが確認をしている最中です」
「既に、会長の判断によって処分が決定しています。どうか⋯⋯」
「どちらにせよ、処分は明日の予定だったはずだけれど」
「いえ、それが実は⋯⋯」
 再び、飼育室の扉が開く。数人の足音が近づき、そして、この檻の前で止まる。ひとりの研究員の手によって、鉄格子の扉が開けられた。
「此方へ」
 私はそのまま、言われたとおりに表に出た。再び、防護服を着た研究員が数名。それから、彼らに連れられてきた新たな少女。髪を掻き毟り、激しい呼吸を繰り返している。憔悴し、取り乱している様子だった。
「くそ⋯⋯、おい、早くこの女をぶち込め」扉を開けた研究員は、私の肩を軽く押し出しながら、後ろに控えている他の研究員たちに声をかけている。「こっちは処分室だ。早く」
「明日ではなかったの?」先ほど声をかけてきた少女が、男に訊ねた。
「処分は一日前倒しになりました」男は打って変わって、丁寧な口調で答える。「今、ちょうど空いているケージがありませんでしたので⋯⋯」
「では、そちらの彼女は?」
「ええ、それが⋯⋯」男は、声を潜めた。「例の、呪いの子でして」
 突如、
 荒い息を呑み込んで、少女が顔を持ち上げる。
 目が合った。
 赤い瞳だった。
 次の瞬間、私の躰が後ろに傾く。簡易な実験器具とアルコール液の容器が載せられた台車に激突し、それらを巻き込んで、床の上に倒れ込んだ。
「おい、暴発だ、また始まった!」男が叫ぶ。「早く、閉じ込めておけ、早く!」
【大丈夫ですか?】焦った声が、頭の裡で響いた。【今のは、なに? なにが起こったの?】
 周囲の檻から、視線を浴びている。
 私が今出たばかりの檻に、彼女が押し込められようとしていた。
 赤い瞳が、また、此方を捉える。その一瞬。たしかに、唇が動くのを見た。
「会えるよ」
 ひどく、
 ひどく。
 それは鮮明な、呪いの言葉。
「ごめんなさい」
 彼女は研究員の手を振り払い、足許に落ちていた実験器具の鋏を素早く拾った。
「会えるよ、必ず」両手で鋏を握り直して、少女は己の首に、その切っ先を向ける。「『誰か』に」
【ああ⋯⋯】彼女が呟いた。【ありがとう。その言葉だけを、待っていました】
 瞬く。
 次に目を開けたとき、そこに、鋏を持つ少女の姿はなかった。
 周囲は混沌としていた。その騒然とした混乱に乗じて、私は『彼女』に問いかける。
 けれど、返事はない。
 静寂だった。
 初めて、足が僅かに震えた。事態が把握できない。なにが起こったのか、先ほどまでそこにいたはずの少女の言葉の意味も、なにもわからない。
 会える?
 会えるよ、必ず?
 わからないまま、けれど、
 私の足は動線のとおりに進んでいた。
 呼び止める叫び声が、すぐに近づいてくる。震える足を前後に動かして、重たい扉を急いで開けて、裸足で廊下を駆け抜けた。冷たい。足がさらに震えて、何度も何度も重たい扉を押し開けて、必死に手摺を掴みながら階段を下りた。激しい制止の声が聞こえて、それを振り払って、私は、最後の扉を押し開けた。
 噎せ返るほどの匂いに、思わず咳き込む。
 息苦しい湿気だった。
 眩しさが、網膜を焼く。
 踏み出した足に伝わる土の感触は、不快感を覚える柔らかさで、けれど、ときどき鋭く痛みが走る。
 苦しい。
 温度を孕んだ風が、気持ち悪い。
 息をうまく吸えないまま、走って、走って、走って、様々な視線を振り払って、怒鳴るような叫び声を無視して、此方に次々と伸びる手から逃げて、逃げて、逃げて、ただ足を動かして、息をした。
 答えて。
 答えて、貴女。
 会えるよ?
 会えるよ、必ず?
 誰に?