(0,7)

     3

「もしかして、夢とか見てた?」僕が姉にそう訊ねると、姉は露骨に眉を顰めて不機嫌になった。
 姉は僕の質問には答えず、眺めていた名刺をジャージのポケットに入れる。
 知らない名前の名刺だった。
「それ、誰?」
「さあ。知らない」
「姉さんが貰った名刺じゃないの?」
「私が貰った名刺」
「知らない人なの?」
「だったらなに?」姉は威嚇するように目を細めた。
「ごめん、ちょっと気になっただけなんだ。名刺なんて、こんな歳じゃなかなか貰う機会ないだろ。だから、物珍しいというか⋯⋯」
「病院で会った」小さく低い声だったが、姉はたしかにそう答えた。「それだけよ」
「病院? 僕の?」
「そう」
「いつ?」
「お前を殺した日」
「じゃあ、僕のところに来る前に会った、ってこと?」
「そう」
「へえ⋯⋯」
「これがなんなのか、知ってるような感じだった」
「これってなに?」
「ああ、もう⋯⋯」姉は乱暴に頭を掻き毟った。「いちいち説明しないとわからないの?」
「わからないな」
「でしょうね」姉は一度、舌を打つ。「お前の意識が、私の頭の中にある、今この状況のこと」
「ああ⋯⋯」僕は慎重に頷いた。もちろん、意識の中で、の話である。「たしかに、僕たちだけの特別な能力だって言われるよりも、実は皆できるんだけど、誰にも気づいてもらえないから誰も知らないだけ⋯⋯、という真相のほうが、納得はできるね」
「こんな、漫画みたいなこと⋯⋯」
「でも、大昔の人たちからしてみれば、現代の生活なんて、夢とか御伽噺とか、神話みたいなものじゃない? とんでもない文明の進歩だよ」
「時が経てば、魔法が使えるようになるわけ?」姉は口許を少し歪めて笑った。
「できるんじゃないかな。タネもしかけもある魔法を、魔法って呼んでもいいならね」
「私たちの現状に関しては、タネもしかけもわからないじゃない。やっぱり、お前は私の生み出した幻覚かなにかってことよ」
「じゃあ、姉さんが今、父さんや母さんに気づいてもらえなくなってるのはどう説明するのさ」
「私も、本当は此処にいない」
「そうなると、今この瞬間の僕たちは、どうやって存在してるの?」
「誰かの頭の中の、妄想とか、そんなもの」
「ふぅん⋯⋯」姉の目をとおして、周囲をぐるりと確認した。「じゃあ、この世界は、誰かの頭の中に広がってる世界だって言いたいわけ?」
「万事解決ね」万事解決したとはこれっぽっちも思っていない表情で姉が言った。
 姉はその場を離れると、居間に足を踏み入れた。冷蔵庫を開けて、少しだけ食べ物をつまみ食いする。グラスに麦茶を注いで一気に流し込んだ。喉を液体が通り抜ける感触がして、この躰の内側には本当に食道があるのだとぼんやり思う。
 その後、姉は再び縁側に戻った。法要を終えたその場所は、幽かな風の音だけが時折静けさを掠めていく。
 姉は縁側に腰を下ろすと、ポケットから煙草の箱を取り出し、煙草を一本抜き取って口に咥えた。もう一度ポケットの中に手を入れて、次はライタを取り出す。すっかり手慣れた手つきで火を灯すと、煙草の先端にライタの火を近づけて短く息を吸った。
 すぐに、煙草の先端が赤く灯る。
「お父さんとお母さんのことを考えた上で、お前はあんな提案をしたの?」姉は薄く白濁した煙を口から吐き出した。「こうなることが、そもそも、お前にはわかっていたの?」
「わかっているつもりだったよ」僕は答える。「でも、わかってなかった。父さんと母さんのことも、あの瞬間は、ちっとも考えられなくて⋯⋯、いや、違うかな。考えてたよ。ずっと、ずっと⋯⋯、でも、あの瞬間だけは、それよりも上回ってしまっただけなんじゃないかなって、今なら思う」
「上回る?」
「僕の気持ちがね」
「楽になりたいって気持ちが?」
「違うよ」僕は首を振った。「苦しむことになっても生きたい、っていう気持ちが」
「そうね」姉が短く笑う。「お前は結局、今も、私っていう躰に囚われているわけだものね」
「煙草の煙も苦しいしね」
「ご愁傷さま」姉は再び、これ見よがしに煙草を吸った。
「ねえ⋯⋯、姉さんはどうして煙草を吸い始めたの?」
「その話、ついさっきしたと思うのだけど」姉は眉を顰め、片目を滲ませるように細めた。「もう忘れた?」
「もしかして、姉さんは、楽になりたいの?」
 姉は沈黙した。
 顔を歪めて、それから、ますます不機嫌そうに眉をきつく寄せる。
「意味がわからない」姉が言った。「肺癌で苦しむことになるって、お前が言ったんじゃなかった?」
「罪悪感から逃れようとしてる」
「こんなことに、理由なんてないわよ」
「でも、まったくなにもないってことはないだろ。興味があったとか、悩みがあるとか⋯⋯」
「ねえ」強張った声。「わかったように言わないで」
「わからないよ」
 姉の背中を見た。
 ひとりぼっちの、細くて薄い背中だった。
「姉さんはいつもそうだ、思ってることはたくさんあっても、全然言葉にしてくれない。だから、いつもそうやって、どんどん、自分の中で抱えてしまって⋯⋯」息を吐き出す。「煙草なんて、絶対に吸わないって、言ってたくせに」
「さあ。覚えてない」
「そんなに僕といっしょに生きるのが、嫌だった?」
「そうかもね」
 しばらく、静かな時間が流れた。
 姉が薄く開けた口の隙間から、白い煙が音もなく吐き出され、その白は少しずつ消滅していく。最後には、この静かな時間に溶け込んで、どこにも、なににも、残らない。
「お前は知らないから、あんなことが言えたのよ」
「あんなこと?」
「私も、わかってたのに、知らなかった」姉は煙草を持った手を、ゆっくりと、音もなく下ろした。「ついさっきまで自分と同じように息をして、そこに生きていた人間が、呆気なく、瞬きの間にいなくなるということがどういうことか、私は知らなかったのよ。どこにもいない。もう二度と会えない。会話もできない。触れても、なにも、伝わらない。そこに躰が在るのに、もうそこには誰もいないなんて、そんなこと⋯⋯、信じられなかった」静かに、姉が俯く。「信じたくなかった」
「でも、だからって姉さんが、罪悪感とか、後悔を持つ必要はないよ。だって僕は今、ほら、こうやって生きてるんだ。生き方の形は違うかもしれないけど、でも⋯⋯、生きてるだろ。姉さんはなにも悪くない。躰はもうなくなってしまったけれど、それでも、僕は、まだ此処にいる」
「私は、桜が見たかったのよ」姉が呟いた。「だから、お前を殺したの」
 唐突な姉の言葉に、僕は一瞬、なにも答えられなかった。
 姉が僅かに顔を持ち上げた。縁側に面した中庭には、桜の木が並んでいる。小ぶりな花が咲き誇っていた。白みがかった桃色の隙間から、青空が見える。
 ちょうど、あの日とよく似た、静かで、とてつもなく穏やかで、澄み渡った、嘘みたいな青。
 桜は満開に近かった。けれど、満開になる直前で、桜は風に乗って散る。桜の花びらは境内をちろちろと漂い、地面に落ちていく。
 最後に桜を見たのは、いつだっただろう。
 たぶん、去年の春だった。まだ咲き始めたばかりの寂しい木を見上げながら、来年も桜を見たいね、と言った。お弁当なんて用意しなくてもいいから、ただ散歩をして、桜を見て、ときどきなにかを喋りながら歩いて帰ってくるだけの、そんなお花見がしたいね、と言った。
 それが、去年のこと。
 そして僕の躰は、その次の年、桜が咲く前に、どこにもなくなった。