(1,6)

     2

 廿六木と出会ったのは、今よりも階級がいくつか下だった頃、全国から集められた超能力を持つ公務員を対象におこなわれる、健康診断を装った定期検査の待機会場でのことだった。部屋、という空間の概念以外をすべて削ぎ落してしまったような部屋だった。外では今、雨が降っていたか、晴れていたか、その予感のひとつも届けられることはない。無機質な薄灰色の壁や天井は、拒絶の温度を湛えてすべてを遮断している。
「貴方の超能力は?」
 待機会場で偶然隣に座っていた同業の男にそう訊ねた。階級は自分よりも下であることを確認した上で、暇潰しに声をかけたのだ。若い男は怪訝そうに横目で此方を見た。この場にいるということは、全員が、登録された超能力者だ。そういった事情もあってか、男は表情のわりに、案外あっさりと自身の超能力を明らかにした。
 男は、軽く指を鳴らすようにして片手を振った。
 彼の人差し指には、炎が揺れていた。
「このとおりです。コンロもライタも使えない代わりに」
「へえ、すごいじゃないか。まさに超能力だ」
「普通に不便ですよ」
「まあたしかに、他人に見られないように、という制約がついた途端に使いづらくなりそうだな」
「満足していただけましたか?」
「いや、まだだね。君の名前は?」
「トドロキです」
「トドロキ⋯⋯、車が三つ?」
「いえ」
「じゃあ、などなどにチカラだ」
「ちがいます」
「他にあるか?」
 男はあからさまに面倒だという気持ちを隠すことなく眉を寄せた。この頃と比べると、今は随分人当たりの良い態度になったと言えるかもしれない。
「二十に、数字の六、木で、廿六木です」男は淡々と説明した。
「ニジュウ? 数字の? ああ⋯⋯、あれだ、甘いの漢字から真ん中の横棒を消したやつ? 廿日市の?」
「そうです」
「変わった名前だな。あ、俺は一ノ瀬っていうんだ、数字の一、カタカナのノ、瀬は瀬戸内海の瀬で⋯⋯」
「大体そうでしょうね」
「どうせ、これから此処でしょっちゅう顔突き合わせることになるんだ。よろしくな」
「はい。よろしくお願いします」返答は事務的な冷たいものだった。恐らく、このときの廿六木は、今後俺と関わるつもりなど毛頭なかったのかもしれない。しかし、実際、今ではこうして自宅に招く程度にはなったと思うと感慨深いものがある。
 廿六木は今、目の前に腰かけている。薄く開けた口から煙を吐き出した。液体のように滑らかな煙だった。
「代替じゃないのか⋯⋯」
「なに?」
「ですから、例の事件の⋯⋯」廿六木は中途半端な位置に焦点を合わせたまま、半ば意識をうちに向けた状態で此方の質問に答えた。「そもそも、特定の機能を失ったために我々は超能力を得た⋯⋯、というのは、あくまで推測に過ぎません」
「でも、実際に君は火を点けることができないし、俺には皮膚感覚がないから、痛みも温度も、触れているのかどうかもわからない、幽霊みたいな躰になっちまってるわけだ。その代わりに、君は自分の躰に火を灯すことができるし、俺は他人の皮膚感覚を共有できる。俺はともかく、君の場合はなかなか綺麗な代替だろ?」
「いえ、そうではなくて、機能を失ったことで超能力が生まれたのか、それとも、超能力を得たから機能を失ったのか、です。実際のところがそのどちらなのかは、わからないでしょう」
「つまり、なんだ、鶏と卵のどっちが先か、みたいな話か?」
「ええ⋯⋯」廿六木はようやく此方に焦点を合わせた。「どちらにせよ、原理もわからない、意味不明の現象であることに変わりはありませんけど」
「それ、事件の話と関係があるのか? それってさ、お前で言えば、コンロが使えなくなったからその代わりに発火能力を手に入れたのか、それとも、発火能力を手に入れたからコンロが使えなくなったのかってことだろ? さっきの話じゃ、例の被害者の双子の姉は、なにか機能を失ったことで他人の記憶に残らなくなる超能力を得たかもって話で⋯⋯、ああ、そうか。そもそも、これが逆かもしれないってことか」
「他人の記憶に残らない、もしくは認識されなくなることが、私でいうところの火を点けられないとか、一ノ瀬さんの場合は触覚や痛覚を失っている、といった代償にあたるもので、超能力はそちらではない、と考えたほうがスムーズではありませんか?」
「うーん、いや、わかるんだが、ちょっとややこしくなってきたな⋯⋯」
 誰にも認識されない、という現象は、いわば透明人間になるようなものだ。
 その印象が先行していたために、誰の記憶にも残らなくなる透明人間化現象こそが超能力の内容だと思い込んでしまっていたのかもしれない。
「一ノ瀬さんなら、自分という存在を差し出す代わりに得られるもの、と言われて、なにを想像されますか?」
「え? ああ⋯⋯、さあな⋯⋯、でも、失うの対義語ならゲットだろ。なら、誰かの記憶を取り込むとかか」
「なるほど⋯⋯」廿六木は咥えたまま煙草を僅かに上下に揺らした。「可能性は充分にありますね」
「でも、それって他人の記憶を丸々奪わないと割に合わないよな。俺がその超能力者だったとして、たとえばの話、お前の昨日の晩飯の記憶を奪っただけで、代償として俺の情報がこの世から綺麗さっぱり失われちまうってことだろ?」
「まあ、超能力の内容と失われた機能はまず基本的に釣り合っていないことが前提ですが、そうですね⋯⋯、たしかに重すぎるかもしれません。もしくは、一ノ瀬さんの仰るとおりか」
「俺の?」
「他人の記憶を丸々奪う、ということです。つまり、他人の存在そのものを自分に取り込んでしまう」
 廿六木はそう言ってから、少しだけ口を斜めに下げた。気持ちはわからないでもない。現実味のない会話をしている自覚は自分にもある。しかし、現にそうとしか考えられない現象が起こっているのだ。
「相手の記憶か精神か、はたまた存在かは知らんが、とにかく相手のひとり分を取り込んだんだから、自分のひとり分を放棄しなきゃならんってことか?」
「おそらく存在を取り込んだと見て良いでしょう。もし、相手の記憶を取り込む超能力であれば、超能力者本人が記憶喪失になるだけで、私たちの記憶にはなんら影響を及ぼさないはずです」
「なら、相手ひとりの存在を取り込む⋯⋯、存在を取り込むってなんだ? まあとにかくそうするとだ、自分という存在がひとつ消える⋯⋯、たしかに、これなら代替と言えるのかもしれないな。ひとりを取り込んでひとりを失うわけだから⋯⋯、いや待て、それじゃあ取り込まれた相手が二重で存在することにならないか?」
「いいえ」廿六木は即答した。「そうならない方法がひとつだけあります」