第六章 霜降

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 目の前の扉が、勢いよく開く。
 彼女は伸ばしていた手を反射的に引くと、躰を縮ませてあと退ずさる。
「貴方、その子を、今すぐこっちへ⋯⋯」屋上の扉を開けた看護師らしき女が、此方に向けて忙しなく手を伸ばしながら、慌てて声を張り上げた。「目を合わせないように、さあ、早く」
「監視員か?」
 しかし、高坂八束に向けたつもりの問いかけを拾ったのは、その看護師だった。
「貴方こそ⋯⋯」看護師は訝しげに眉を寄せる。「何者ですか? 貴方が、この子を連れ出したんですか?」
「違います」いつの間にか俺の後ろに下がっていた彼女が、俺よりも先に否定した。「わたしが自分から、部屋を抜け出しました。この人は、わたしを助けてくれただけです」
「助けた? 助けたって、なにからなの?」
「あ、いえ、その⋯⋯、えっと⋯⋯」
「どっちにしてもね、貴女が脱走した、という事実は変わりません。被害がなかったのが不幸中の幸いです。貴女は早く此方にいらっしゃい。この方には、のちほど詳しくお話を伺いますから」
「本当に違うんです、あの、この人⋯⋯」そこで、彼女はなにかを思いついたのか、目を僅かに見開いた。「わたし、この人を先生にしたいんです!」
「は?」
 間の抜けた、看護師と俺の声が被る。
「どういうこと?」看護師が言葉を続けた。
「あの⋯⋯、この人、今さっき、わたしの呪いを避けたんです。初めて⋯⋯、初めて、わたしが呪いをかけずに済んだんです。この人に教えてもらえたら、もしかしたらわたしも⋯⋯、ね、コントロールなら得意だって、さっき、言ってましたよね?」
「たしかに言ったが⋯⋯」困惑を隠しきれず、眉を寄せた。
「避けたって、本当に?」看護師が訊ねる。
「はい」俺は正直に答えた。「それじゃあ⋯⋯、彼女は本当に、呪いを?」
「とにかく⋯⋯、まずはこの子を、早く連れ戻さないと」
 看護師の言葉を受けて、彼女はなぜか俺の腕を両手で掴んだかと思えば、恐る恐る足を前に出して動き始めた。彼女の手を振り払いたかったが、結局、「貴方もご一緒に」という看護師の一言で、観察病棟まで共についていかなければならなくなった。
 階段を降りる際、あまりにも彼女の足取りが危ういので様子を伺うと、彼女は目を瞑って歩いていた。
 平時よりも三倍近い時間をかけて到着した観察病棟は、二階建ての小ぢんまりとした建物だった。中に足を踏み入れると、病院というよりは、小学校や介護施設のようなイメージに近い。
 エレベータで二階に上がる。しばらく廊下を進み、彼女の病室だという扉の前に案内された。躊躇ったが、自分が病室に入らなければ、俺の腕を今もなお両手でしっかりと握りしめている彼女も入ることができない。溜息を隠すことなく零し、渋々、扉を開けて入室する。
 木目の壁と天井。床は、グレイのタイルカーペットが隅まで敷き詰められている。正面の壁には、大きな窓。採光も充分で、想定していたよりも開放的であり、小さな宿泊施設という程度の印象だった。観察病棟という言葉には、良い意味であまり結びつかない。
 部屋は、予想していたよりも生活感があった。ベッドの上に薄汚れたピンク色のクマのぬいぐるみが鎮座していたり、机には、読みかけなのか、何冊かの本が平積みされている。
 大きな窓のすぐ下には、室内に向けて迫り出した細長い板のようなものが取り付けられている。小さな植木鉢や植物がいくつか置かれていた。室内に作られたベランダとでも言えよう。
「まったくもう⋯⋯」俺たちの後に入室した看護師は、部屋の扉を閉めると、呆れた様子を隠すことなく溜息を吐いた。「まさか脱走するだなんて⋯⋯、そりゃね、ずっとこんなところで、誰かと会うこともできないし、私も、貴女と目を合わせてあげられないことは申し訳ないと思っているけれど⋯⋯」
 看護師は四、五十代の女性。看護師の話し方や表情からするに、想像よりも関係は良好らしい。とはいえ、まさか目の前の少女が、飛び降り自殺をするために脱走して屋上に向かった、とは考えもしていないようだった。
「観察病棟、と彼女から訊いていたので、失礼ながら、もっと独房のようなものを想像していました」彼女がなにも答えないので、代わりに新たな話題を提供した。彼女は依然として腕を握りしめ、俺の背中に隠れるようにして俯いている。「とはいえ、一般病棟とは在り方が異なることは理解できます。そもそも此処は、どういった患者が集まる病棟ですか?」
「此方も失礼なことを申し上げますけれど、そういったことは、部外者の方にお話することはできません」看護師が緩やかに頭を横に振りながら答えた。
「そうですか。いえ、失礼でもなんでもないでしょう。私は正しく部外者です。お気遣いなく」
「ええ、はあ⋯⋯」看護師は曖昧に頷いて、首を傾げる。「あの、それで、一体なにがあったのですか? 彼女を助けた、というのは?」
「母の見舞いを終えて、外の空気でも吸おうかと屋上に足を運ぶと、彼女がいました。少々興奮していたようで、此方の登場に驚いたのか、謎の魔術を⋯⋯、彼女曰く、呪いの発動を誘発してしまったようです。直撃を避けることはできましたが、彼女は見ず知らずの男に向けてしまったことにか、ひどく混乱してしまい⋯⋯、取り乱して落下されるよりはと、半ば無理やり引き止めました」
「だって、最近、全然、抑えられなくて⋯⋯」彼女がようやく口を開いた。今にも泣きそうな、か細く震えた声だった。「ただでさえ、いろんな人を無差別に呪ってきたのに、今はもう、なにも抑えられなくて⋯⋯、毎日、どんどん、自分が可笑しくなってるって、こんなの普通じゃないんだって、わかるんです。だからもう⋯⋯、耐えられなかった」
「八束ちゃん⋯⋯」看護師は眉を下げ、少し腰を屈めた。「ごめんなさい。本当に、私にできることなんてなんにもないのね⋯⋯、なにかできることがあれば、なんでもしてあげたいけれど、そうね、貴女の能力が解明できていれば、貴女は今もこんな生活を続ける必要はないのだもの」
「垣田さん」彼女は尚も俯いたまま、しかし先ほどよりもしっかりとした発声で看護師の名を呼んだ。「なんでもしてくれるなら、お願いします、この人を私の先生にしてください。部外者だなんて呼ばないで。わたしは、この普通じゃない力を、どうにかしたいんです。もう、誰も、誰ひとり呪いたくなんてない。全部、わたしの意思じゃない。わたしの意思で呪った人なんて、誰ひとりいないんです。呪いたくて、顔を上げたわけじゃないんです。呪いたいから、目を合わせたわけじゃないんです。だから⋯⋯、お願い、信じて」
「ずっと信じているわ。ええ、貴女がどれほど優しい子か、私はよく知っています」
「お願いします」彼女の額が押し付けられた腕の袖口に、一滴の熱い液体が触れたのを感じた。「わたし、もう、こんな生き方は嫌⋯⋯」
 彼女のその一言を決定打に、垣田と呼ばれた看護師は静かに息を吐き出した。