第六章 霜降

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 結果として、一介の高校生に過ぎないはずの俺は、高坂八束の担当者として毎日三十分間の面会が許された。許された、というよりは、依頼された、と言ったほうがより正確である。
 この面会は、彼女の発作とでもいうべき呪術をコントロールできるようにするために設けられた場だった。今までは、医者兼研究者の魔術師が、彼女のケアをおこないながら試行錯誤していたそうだが、彼女の状態は緩やかに悪化するばかりだった。彼女の呪術は、知らぬ間に始まり、自らではコントロールができない。発動の直前には目の色が赤く染まること、そして、相手を直視することで呪われることが判明していたが、その仕組みも、発動の条件も定かではない。物心がつくより前に、彼女の存在を把握した日本の魔術協会の手で保護され、以来、彼女は誰とも目を合わせることなく、此処で生活している。
 高坂八束は、一般家庭に生まれた子どもだった。
 一般家庭に生まれながら、訓練もなく、魔術を駆使する。それは異例なことであり、この国ではほぼ前例がない。世界で僅かに事例が報告されている程度の出現率だ。学会において彼らの存在は、才能の一言では片づけることができない、突然変異的な存在として考えられている。
 彼らは共通して、特定の分野に特化している。高坂八束の例で言えば、彼女は『呪術』という、魔術の中でも最難関の分野に特化している代わりに、それ以外の術をおよそ行使することができない。
「八束ちゃんの力の⋯⋯、そうよ、仕組みなんてわからなくてもいいわ」看護師が一度、そう胸中を零したことがある。「それを解明したいのは、協会とか、国とか、そういったお偉い方々の思惑だもの。もちろん、それを研究することは、これからのなにかに役立つかもしれないけれど、そのためだけに彼女をこの場に縫いつけて、閉じ込めて、軟禁する必要はないはずだわ。だってそうでしょう? 彼女が、自分の力をコントロールできるようにさえなれば、呼ばれた日に此処に足を運んで、ときどき協力するだけでいいはずなのよ。だからね、此処の職員たちは皆、この病棟にいる人たちには、せめてコントロールができるようになって、そして、解放してあげたいの。自由に生きてほしい。それだけなのよ」
 そのための協力者として、自分は招き入れられた、ということになる。面倒なことになった、と頭の片隅ではたしかに感じていたものの、それも一瞬のことだった。彼女の呪術について、暴きたいこと、試したいこと、その挙動を制御すること。それらへの興味を、なんの咎めもなく、しかも一介の高校生が、一度だけ彼女の呪術を避けることができたという理由だけで、正々堂々と実行に移し、知的好奇心を満たすことができる機会をみすみす逃す手はない。結局のところ、俺は、看護師を始めとした職員たちのように高坂八束という個人を見てはおらず、彼らのいう、公共の利益のために暴きたがるお偉い方々よりも尚性質たちが悪い。あくまで俺は、私利私欲のために、この話を受け入れたのだ。
 そして、実のところ、彼女に対して抱いた興味は予想以上に持続していた。
 現代において、呪術の使い手は非常に稀有な存在だ。人生に介入し世界に干渉する、繊細にして強大な術式。それを、自らの技術で、この俺がコントロールできるかもしれない、という興奮。
 目の前の小さな体躯が抱くのは、世界を塗り替える力だ。
 無意識下での認識を可能にする突然変異の仕組み。生い立ちによる彼女の人格形成の過程。その不安定が術式にもたらす影響。呪術発動の条件、術式の構造。いまだ、興味が尽きる気配はない。
 操作、制御、支配。それらに特性を示す体質が生まれやすい家系の人間として、彼女の信頼を勝ち取り、掌握することは容易かった。事実、彼女の精神状態は着実に安定するようになった。このまま安定させることができれば、彼女の呪術はコントロール可能な、体系的な学問として研究することができるものになる。
 思わず微笑みを浮かべかけた口許を引き締めて、意識を正面に座る彼女に戻した。
 放課後、母の見舞いのあと、自分は毎日この部屋を訪ねている。壁は、薄く色のついた限りなく白に近い色をしていたが、一面だけ、薄い水色の壁だった。あまり広くはない部屋に対して、大きなソファが二脚。ほとんど黒に近い濃い藍色をしたソファは向かい合っており、間には、妙に短足の白い机が置かれている。
 この部屋で、平日の放課後に三十分、彼女と話をした。もちろん、この様子は天井の隅に設置された監視カメラによって全て把握されているが、音声までは拾っていないのだという。
 高坂八束は、正面のソファに座っている。
 彼女は瞬いたのち、伏し目がちに目を逸らした。
 目が合うたびに視線を逸らすのは、彼女の癖だった。もっとも、彼女の場合は性格というよりも、呪いを無差別に放つことを恐れているのだろう。今のところ、目が合いさえしなければ、彼女の呪いは発動しない。しかし、自分と初めて出会ったときのように、咄嗟に目が合ってしまうことはままある。そういった場合に、意図せず呪いの焦点を合わせてしまわないようにコントロールするためには、彼女の意識を改善させることが第一だ、と考えた。
 魔術においてまず求められることであり、なによりも重要なステップは『認識』である。そこがクリアできなければ、魔術を行使することはできない。そのためにも、まずは対話を積み重ねることで、魔術に対する彼女の認識を軌道修正すること、そして、彼女の意識をコントロールできるようになることが最優先の課題だったのだ。
「貴女の呪いが暴発する理由は、恐らく、過度な恐怖心からです。目を合わせてしまえば相手を呪ってしまう、という恐怖心。ストレスによって暴走し、暴走によってストレスを抱え込む負のループ⋯⋯、ですからまずは、必要以上の恐怖心を抱かないこと。些細なことでかまいませんから、自分に自信を持つこと。それが、最優先の目標です」
「えっと⋯⋯」伏し目がちに目を逸らしたまま、彼女が口を開いた。「さっきの、話なんだけど」
「はい」
「やっぱり、喋り方を、変えてほしい⋯⋯、です」柔らかな細い髪を揺らして、彼女が小首を傾げる。「だめ⋯⋯、かな」
「前にも言いましたが⋯⋯、貴女が年上だと判明した以上、言葉遣いは丁寧にしておくべきでしょう。日本では、学生の間、年上の人間を『先輩』と呼ぶのだと訊きましたが」
「君島くんのほうが、いろいろと先輩だけどね」そう言って、彼女は僅かに微笑んだ。「どっちかというと、先生かな」
「やめてください。いずれ家を継ぐからと、少しばかりそういった教育を受けているだけで⋯⋯、先輩は忘れているようですけど、俺はまだ、十六です」
「わたしだって、まだ十七才です」
「誕生日、春なんですか?」
「うん」
「先輩らしいですね」
「どういう意味?」
 春が似合いそうだ、という説明を口に出すことはなかったが、できるだけ表情が硬くならないように意識をして彼女の目を見た。
 彼女は慎重に顔を持ち上げて、目を合わせる。なにも起こらないことを確認した彼女は、頬を弛めながら、此方を見て、たしかに微笑んだ。
 長いようで、あっという間だった。彼女がこうして微笑みを見せるまでの間に、春の陽気は失せ、蒸し暑い夏の空気に切り替わっていた。
 そして、これが彼女と交わした最後の会話だった。