第六章 霜降

     7

 高坂八束と初めて出会ったとき、彼女は病院の屋上から飛び降りるところだった。
 忙しなく吹きすさぶ風の音に合わせて、白いワンピース状の患者衣が暴れるようにはためく。靡く色素の薄い髪と、眼前に広がる深い青色が混ざり合う。
 扉の音に振り返った彼女と目が合ったそのときには、自分は反射的に省略ショート詠唱コードを口にしていた。彼女の動きが止まったことを確認して、ようやく、意識的に息をゆっくりと吐き出す。
 彼女は怯えたように肩を竦めて此方を振り返ったまま、それでもまだ、何度も足を空のほうに動かそうと藻掻いた。此方が動きを抑えつけているにもかかわらず、彼女の躰は小刻みに震え始め、次第に顔が顰められていく。
 俺は、平静を装いながらゆっくりと彼女に向かって歩き、屋上の中心で立ち止まった。
「お願い、早く離れて」彼女の口の動きが、やけにはっきりと見えた。風の音に搔き消されてしまいそうなほど、か細い声だった。「お願い、わたしを自由にして」
「無駄な抵抗はやめたほうがいい。とにかく、飛び降りないと約束しろ。そうすれば、この拘束はすぐに⋯⋯」
「お願い」色素の薄い目が、徐々に赤く染まる。「だめ、間に合わない、早く!」
「間に合わない?」
 その瞬間、彼女の目が、血の色に塗り替えられた。
 尋常ではない。
 膨れ上がるような魔力の圧。
 押し潰される、と直感するや否や、その圧力が突如破裂した。
「外れて!」悲鳴のように、彼女が叫ぶ声。
 自らの身を庇いながら、半ば無意識に腕を突き出して空中を掴む。
 そのまま腕を此方に引き寄せれば、彼女がふらついた。
 彼女の視線が僅かに逸れ、
 爆発的な圧力が、自分のすぐ傍を通り抜ける。
 その反動に耐えきれず、受け身を取りながらアスファルトに倒れこんだ。
 空気の振動。
 沈黙。
 事態を把握しきれないまま、顔を持ち上げる。数メートル先には、彼女がうつ伏せに倒れていた。
「大丈夫か?」すぐに躰を起こし、近くまで駆け寄った。「悪かった。咄嗟に引き寄せたせいで、力の加減ができなかった。痛みは?」
 彼女は恐る恐るといった様子で躰を起こしたが、此方と目が合うと、すぐにまた怯えたように躰を縮ませた。
 目は、髪の色と同じ。色素の薄い瞳。
 あの禍々しい赤色の痕跡はない。名残も、その跡形もない。
「今のは、なに?」彼女は震える声で呟いた。
「それは此方の台詞だ。今のは、なんだ?」
「あれは、呪いで、でも⋯⋯」伏し目がちに視線を彷徨わせながら、眉を下げる。「外れました。躰が勝手に動いて、だから⋯⋯」
「君の躰を動かしたのは、俺だ」
「貴方が?」そう答えると、彼女は驚いたように顔を上げて、目を見開いた。「でも、わたしは屋上の端にいて、貴方は、中央にいたはずで⋯⋯」
「一種の契約魔術だ。支配ジャックには少々心得がある」
「うそ⋯⋯」少女の声。「避けた? 貴方が?」
「なにかまずいことでも?」
「ううん。良かった⋯⋯」それが、彼女が初めて見せた怯え以外の表情だった。「貴方を⋯⋯、呪わなくて済みました」
 屋上のアスファルトの上で、彼女は脱力したように座り込んでいる。
 数秒ほど逡巡したが、結局、その場に片膝をついて視線の高さを合わせることにした。
「次は、此方の質問に答えてもらおうか」片膝をついても尚、彼女の頭を見下ろす形になった。「先ほどの魔術が呪いだと言ったな。詠唱もなく、儀式化された手順も踏まずにあれほどまでの強大な魔力を放ち、あまつさえ、呪うなど⋯⋯、ほぼ不可能だ。ただの魔弾ではない、という証拠は? いったい、どういうつもりだ?」
「ごめんなさい」彼女は囁くように呟く。「わたし、魔術なんて使えません」
「魔術が使えない?」思わず声が上擦った。「馬鹿な⋯⋯、此処をどこだと思っている? 魔術師でなければ、この病院に立ち入ることもできないんだぞ。そもそも、呪詛とは魔術だ。それも、魔術の中でもっとも魔法に近い分野だというのに⋯⋯、それをはなったのだと述べておきながら魔術を使えないなど、矛盾している」
「内緒にしてくれませんか」彼女は怯えるように肩を竦めた。「わたし⋯⋯、高坂といいます。あの⋯⋯、知りませんか?」
「知らないな」素っ気なく答える。「生憎、俺は今日、母の見舞いに来ただけの高校生だ」
「高校生?」彼女は再び顔を持ち上げた。「てっきり、この施設の大人かと⋯⋯」
「父がフランス人だ」しばらくして、答えにしては少々説明が不足していた、と考え直す。「純粋な日本人よりも、いくらか成長が異なる。よく間違えられるから、構わない」
「どっちかというと⋯⋯」彼女は一度視線を逸らしてから、上目遣いに此方を見た。「喋り方のほう、かも」
「爺くさくて、悪かったな」
 眉を顰めてみせると、彼女は躰を縮めて俯いた。
 それが、高坂八束との出会いだった。
 国内唯一の、魔術師のみで構成された医療研究センター。世界中の魔術医療研究施設の中で、日本はトップレベルの研究実績と技術を持つ。実際にこの施設は、フランスではお手上げだった母を引き受けた。中学入学を機に自分も日本に移り住み、既に四年目だ。つまり、母の見舞いに通い始めてから四年が経つのだが、彼女の姿は無論、名前にも一切心当たりがない。
「ごめんなさい、わたし、戻ります」危うい足取りで、彼女が立ち上がる。「貴方も、早く離れてください。きっと、すぐに見つかってしまいます」
「見つかる?」自分も立ち上がり、彼女の行く手を阻んだ。「どこに戻るつもりだ?」
「わたし、観察病棟の人間なんです」今にも泣き出しそうな声で彼女が呟いた。「目を盗んで、ようやく此処まで来たのに、貴方に止められてしまったから⋯⋯、抜け出したことに気づかれる前に、早く、戻らないと⋯⋯」
 屋上から一度、素早く施設の敷地を見渡す。一般病棟と呼ばれるこの建物は、この辺りでは最も高い建物だ。広大な敷地の中には数多くの建物があり、奥には鬱蒼と生い茂る森のような一帯が広がっている。観察病棟は、その森の手前に建てられた小さな建物だ。
 魔術界における突然変異者や異常者を保護という名目で軟禁し、その特異な表現型を観察、研究する施設。そんな、噂のような話を、見舞いの際に耳にしたことがあった。
「君は何者だ。なにをしに、こんなところへ?」
「わたしのことは、忘れてください」
「ならば、俺に記憶操作でも施せばいい。短時間の記憶が対象ならば、比較的簡単な術式だ」
 その言葉を嫌味だと判断したのか、彼女は此方を無視して屋上を横切り、階段に繋がる扉に向かった。彼女のすぐ後ろをついて歩き、もう一度声をかける。
「俺の質問に答えてくれるなら、手伝ってやるぞ」
「手伝うって、なにをですか」彼女が素っ気なく訊ねた。
「要は、観察病棟の監視員に、抜け出したことに気づかれずに病室に戻りたい、ということだろう。彼らの足取りを此方でコントロールすればいいだけだ。そうすれば、堂々と戻ることができる」
「そんなことが、できるわけ⋯⋯」
「俺の名前は、君島操だ。操は、操作の操。俺の家系は、制御系統の魔術には少々詳しい」自らの名を名乗り、最後の一押しを告げる。「君の飛び降りを止めた術式を、もう忘れたのか?」
 彼女はドアノブに伸ばした手を止め、恐る恐る此方を見上げた。しかし、目が合う直前に瞬きによってその薄い色素の瞳は隠されてしまい、次にはもう、彼女の視線は僅かに下に落ちる。
 彼女が口を開きかけた、そのときだった。