第六章 霜降

     5/名護真崎

 狭霧は数秒の間、目を僅かに見開いていた。
 驚いたように此方を見ていたが、すぐに、眉を寄せながらも姿勢を正す。
「それ、此処で話してもええことなんか」狭霧が訊ねた。
「近衛さん以外になら、誰に聞かれたって問題ねえよ」
 狭霧は不安げに此方の様子を伺っている。
 目の前の男は、たしかにオレの顔を見ているが、その視線は僅かに外れている。歪みのせいで、オレの目の位置を正確に把握できていないのだろう。
 正座し、畳に両手をついて躰を動かした。正面から向かい合えば、狭霧は緊張した面持ちで口を結び直し、正座した膝の上に拳を置いて背筋を伸ばす。
「お前の言うとおり、昨日、ちょっといろいろあった。親父と、照雪さまと、それから⋯⋯、近衛さんと」
「うん」
「そんでさ」乾いた喉で、唾を呑み込む。「オレ、お前に、隠さなきゃならねえことがある」
「隠す?」
「お前に嘘はつきたくない。隠しごとなんて、できればしたくねえ。でも、オレはどう足掻いても、名護の人間だから。だから⋯⋯、お前にひとつ隠すことを、許してくれ」
 頭を下げて、すぐに顔を持ち上げる。
 狭霧は品定めか、或いは観察でもするかのように、時折目を細めながら此方を見ていた。
「近衛に訊かれたくなかったってことは、その隠しごとって、つまり⋯⋯」
 しかし、言葉はそこで途切れた。
 狭霧は眉を寄せて口を噤み、初めて視線を逸らす。隠さなければならないような話を、彼女とオレが共有していることには狭霧も気がついたのだろう。
 彼女は、隠していることさえ、隠しておきたかったはずだ。
 囮になるために、生き永らえることを許されたのだと。
 一日でも長くオレたちの隣に立つために、彼女自らがそう進言したことを、彼女は知られたくなかったはずだ。
「ごめんな、狭霧」
 オレは、彼女を守ることができない。
 オレは、己の主人ひとりを守るので精一杯だと判断されたのだ。
 彼女という囮を利用しなければ、狭霧を無事に連れて逃げ出すことさえままならない。オレひとりの力など、所詮その程度のものだ。
 名護真崎は、久遠狭霧を守らなければならない。
 そのために彼女を切り捨てなければならない瞬間が、いつか来る。
 近衛斎という少女は、仲間はずれの人間だ。孤独に生まれ落ち、ただひとり魔臓を持たない。殺処分のために組織と国家が彼女を狙い、細胞の利用価値という一点でのみ彼女は今、生かされている。そしてついに、この家からも見放されてしまう彼女を、オレは留めることができない。彼女の力になりたいと願う主人の前で、オレは彼女を、見放さなければならない。
「俺が聞いたところで、教えてくれへんのやろ」
「ごめん」軽薄な謝罪を繰り返すことしかできなかった。「照雪さまからの命令だ。オレは、逆らえない」
「わかった」狭霧が頷く。「じゃあ、俺もひとつ、お願いしてもいい?」
「お願い?」
「頼むから、命を放っぽりだすような真似だけはせんといて」狭霧はほんの少しだけ、困ったような笑みを見せた。「俺、お前に命張って助けられても、これっぽっちも嬉しくないねん」
「無事に、逃げ切ってみせる」彼女という犠牲を払ってでも。「だから、大丈夫だ」
「うん」狭霧は、静かに目を閉じた。「ありがとう」
 その後、オレたちは客間を出て、それぞれ解散した。法衣に着替え、常に持ち歩いている分解式の錫杖が入った袋を手に、山を少し登って小屋に向かう。途中で、手頃な大きさの石を拾った。
 小屋に入り、拾った石を中央に置く。その前に座って、オレは、絶え間なく経典を読み上げながら錫杖を組み立てた。
 魔術を扱うために、視点を切り換える。
 いくつか試したが、いちばん自分に合っていると感じた方法がこれだった。
 組み上がった錫杖は床に置き、座り直す。目を閉じて呼吸を整えた。実戦では、こうして悠長に深呼吸をする余裕はない。どれだけ迅速に、魔術を使用する頭に切り換えられるかがこれからの課題だろう。
 魔術とは、フィクションのように、なにもないところから炎を出す、といったわかりやすい攻撃ができるわけではない。物理法則という法を根底から覆すものは、魔術ではなく魔法だ。魔術とはあくまで、魔と呼ばれるエネルギィを用いた現象に過ぎない。炎を操ることはできても、炎を出現させることはできない。魔術で物を持ち上げることはできてもテレポートはできない、といった具合だ。
 特に、久遠寺に代々伝えられている魔術は、密教の要素が強い魔術であり、西洋の魔術とは大きく異なる。どちらかといえば、オレたちの魔術は呪いだ。通常の仏教で火や水を操ってみせることはないが、健康を祈願したり、悪霊を調伏したりはする。魔術とはいえ、あくまでその延長であり、自分はせいぜい結界を張るか、真言を唱え続けて自らの身体能力を高めて戦うのが関の山だ。
「良いか。お前は、火を想像しろ」以前、父に言われた言葉を思い出す。「摩利支天といい、炎に見た幻覚といい、どうもお前はそちらに適性があるようだ。魔力を不安定なもの、或いは、揺れているもの、と捉えている傾向がある。思い当たる節があるか? ならば、結界を張るときは、摩利支天を唱えて、燃え上がる炎の壁で四方を囲む意識を持ち続ける。魔弾を放つときは、火の玉か、熱の塊をイメージする。どの印を結び、どの真言を唱えるかは、これから試行錯誤していく必要があるだろう」
 文化祭の日、直継と呼ばれる組織の男たちが繰り出した謎の衝撃波も魔術による攻撃だった。父曰く、あれは魔を搔き集めて凝縮して放つ、魔弾のようなものらしい。狭霧が初めから攻撃を視認できていたのも、オレが摩利支天の経典を唱えているうちに見ることができたのも、あれが魔力の塊だったからだ。
 魔は、魔臓が生み出し、体内を循環している。
 地味に見えるが、その制御には集中力と繊細なコントロールが必要で、成功した回数は片手の指で事足りる。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク」根本印を結ぶ。炎。そこから真っ先に連想する大呪。「サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビキンナン・ウンタラタ・カンマン」
 目を開ける。
 小屋の中央に置いた石を見ながら、もう一度唱えた。印を結んだ手許に、熱を集めて炎の玉を作り出す意識をする。三度目を唱えて放出をイメージした瞬間、一瞬の浮遊感を覚えたが、すぐに衝撃が躰に跳ね返ってきた。
 慌てて部屋の中央を確認すると、小石は砕け、破片が飛び散っている。
 成功した安堵から、思わず溜息が零れた。
 不動明王の火は、一切の悪行や煩悩を焼き尽くすと言われている。そもそも、不動明王の修法は護摩が中心であり、炎を連想しやすい。しかし、自分はまだ、声に出さなければ魔術を発動させることができない。最も長い火界咒を、それも三度唱えるともなれば、実戦的な長さではないだろう。
 父の判断は正しかった。
 オレは、己の主人ひとりを守るので精一杯だ。
 乾いた笑みを浮かべて、オレはもう一度、印を結んだ。