第六章 霜降

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 翌朝、真崎に布団を剥ぎ取られて目が覚めた。夏の名残は既に遠く、すぐ傍に冬の気配が感じられる。そんな秋の冷気が、容赦なく寝起きの頭を叩き起こした。
「トレーニングに付き合わせてくれって、お前が言ったんだろ」かけ布団を回収した真崎は、仁王立ちで此方を見下ろす。「水飲んでさっさと目ェ覚ませ。朝飯前に走るぞ」
「今、何時⋯⋯」
「朝の五時半」
「なんで学校行く日より早いねん⋯⋯」
 ようやく躰を起こすが、瞼は貼りつけられたかのように重たい。真崎に引き摺られるようにして準備をし、三十分後には境内の階段の前に立たされていた。早朝だが、多くの僧侶たちが既に境内を行き来している。黒い法衣を視界の端に入れながら、真崎の後ろをついて歩き、階段を下りていく。
「山ん中走るのと、山下りて道を走るのと、この階段でトレーニングするの。どれがいい?」
「俺はあくまで基礎体力をつけたいだけなんやけど」
「オレのトレーニングに付き合うって言ったのはお前だろ?」真崎は階段を下りながら、此方を振り向く。「今日はお前に合わせて、ひとつだけにしてやるって言ってんだ。選べ選べ」
「じゃあ、道」
「そう言うと思った」真崎は軽く笑い声を零すと、階段を下りるスピードを速めた。「んじゃ、ちょっくら走りますか」
 山を下りて道を軽く走り終えたあとは、シャワーを浴びて着替えた。いつものスウェットを着ようとしたが、自分の洋服はマンションに一式置いていることを思い出し、仕方がないので予備の作務衣を着る。朝食を食堂で食べてから、彼女が泊まっている客室に真崎と向かった。
 障子越しに声をかけると、数秒後、障子が開けられた。驚いたことに、彼女は今日も制服を着ている。
「おはよう」障子に両手を添えた体勢で、近衛が此方を見上げて微笑んだ。
 しかし、すぐに伏目がちになると、彼女は何度か緩慢にしばたたく。
「ちゃんと寝れたか? 体調は?」
「大丈夫です。ありがとう」彼女はもう一度、微笑みを見せた。「よく眠れました」
「嘘」
「なあに?」
「どう見ても寝れてへんやんけ。べろ引っこ抜かれたいんか」
「貴方、意外と過保護なのね」近衛は小さく肩を竦めた。「最近、電気を点けていないとうまく眠れないの。でも、電気を点けたままにしておくのはいけないと思って、電気を消したら、眠りがどうしても浅くなってしまっただけよ」
「点けたって構わん」
「そういうわけにもいかないわ」
「じゃあ⋯⋯、電気スタンドでも点けとくとか。効果あるかわからんけど、俺の部屋にあるから、それ使うか?」
 近衛はなにを思ったか、瞬きののち、目だけを動かして真崎のほうを見た。それから、力を抜くように笑って此方を見る。
「そうね、ありがとう。お言葉に甘えるわ」
「いや、べつに、迷惑やったらごめん。押しつけるつもりはないから⋯⋯」
「違うの、そういう意味ではないのよ」近衛は障子を最後まで開けた。「とても助かります。貴方が使っていないのなら、是非」
 中にどうぞ、と彼女が控えめにジェスチャをする。六畳の客室には、中央に置かれた足の短い座敷机と、部屋の隅に布団が丁寧に折りたたまれている他にはなにもない。掛軸が設置された床の間の手前には、鞄がふたつ置かれている。ひとつは学校指定の通学鞄。もうひとつは、着替えが入っていると言っていた小さなバッグだった。
 障子を開けたまま客室に入り、座敷机を囲んで座る。
「貴方たち、ご実家ではいつも作務衣を着ていらっしゃるの?」
「オレはお勤めとかあるんで、わりと着ます」真崎が答えた。「狭霧が着てるのは、ちょっと珍しいけど」
「服、全部あっちにあるの忘れとった」
「お前、トレーニングウェアは持ってきたくせに、着替えは持ってこなかったのかよ」
「そんなこと言うたら、嬢さんも、なんで制服なん」
「制服以外に服を持っていないの」近衛は片手で髪の束を後ろに流した。「持ってきたのは、パジャマ用のワンピースと、制服のシャツと下着だけね」
「動きにくいやろ、制服とか」
「大丈夫よ」
「じゃあ、真墨と買い物でも行ったら?」机に肘を置き、頬杖をつく。「正直、此処にずっとおるのって気ィ悪いやろ。同級生の実家とか、さすがに気まずいと思うし」
「今日の貴方、本当に過保護ね」彼女は指を揃えて口許に添え、くすりと笑った。
「さっきから過保護過保護って⋯⋯、べつに、そんなつもりじゃないけど」彼女から視線を逸らし、机の模様を見つめる。頬杖をついていた手を少しずらして、手のひらで口を隠した。「そら、心配にもなるやろ」
「ええ。私も心配だわ」そう言って、彼女も頬杖をついた。「久遠くんが、いつかその優しさにつけこまれて、良いように利用されるんじゃないかしらって」
「いや、されへんし」
「自分で仰る方ほど、信用ならないものはなくてよ」
「姉貴なら、喜んで付き合うと思います」真崎が言った。「せっかくだし、一着くらい、私服を買ってみてもいいんじゃないすか」
 近衛は無言で、真崎を見た。
 この目では、真崎の顔を見ることはできない。一方、彼女の顔は、笑っているようにも、呆れているようにも見える。今までに見たことがない表情だった。
「な、狭霧も、そう思うだろ」真崎の言葉。
「え? まあ⋯⋯、うん。そうやな」近衛と目が合った。「もし、ちょっとでも興味があるんやったら、遠慮せんと行ってきたら」
「酷い人ね」彼女はそう呟くと、立ち上がり、客間を出て行ってしまった。
「酷いって⋯⋯、俺か?」
「お前に向けた言葉じゃねえよ。心配すんな」真崎は肩を竦めるような動作をした。「お前はいつもどおりにしてりゃいい。下手に気にして、変に取り繕うよか、よっぽどましだ」
「たしかに、そうかもしれんけど」
 曖昧に答えながら、改めて真崎を正面から見た。
 中心に向かって巻かれた大きな渦に引き摺られるようにして、全身が歪んでいる。これが真崎の歪み方だ。しかし、いつもなら静止したはずの歪みが、ときどき思い出したように揺れ動いている。
 また、指先が、静かに一度だけ揺れた。
「もしかして、もうバレちまってんのか?」真崎が乾いた笑いと共に言った。
 指先から、真崎の顔に視線を動かす。
 目が合うことはない。合わせることができない。
「バレとるって、なにが」
「取り繕うのは、結構得意だと思ってたんだけどな」真崎が足を崩す。「オレ、今どんな感じ? 揺れてんのか?」
「ちょっとだけ」
「へえ⋯⋯」
「でも、正直、よくわからん」
「なにが?」
「最初は、俺がなかなか起きひんから怒っとるんかなって思っとった。でも、お前が嬢さんのほう見たときに、ようやっと気づいたわ。あいつと、なんかあったんやろ」
「オレ、怒ってんのか?」
「は?」
「いやさ⋯⋯、正直、自分でも、自分がちょっとわからなくなってきて」真崎は後ろに手をつき、少し背を仰け反らせた。「もうぐっちゃぐちゃって感じ」
「怒ってるかもしれんけど⋯⋯」もう一度、真崎の指先を見る。「それにしては、覇気のない揺れ方っていうか」
「揺れ方に覇気とかあんの?」
「なんか、苦しそうやな、とは思う」
 真崎はなにも答えなかった。
 遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。
 鳥の鳴き声。
 冷たい風の音。
「狭霧」真崎の声。「お前にひとつ、言っとかねえといけないことがある」