第六章 霜降

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「貴方、どちらが偽名なの?」
 目の前を歩く男の背中に向かって、声をかけた。男は尚も足を止めず、しかし足音を立てずに、廊下を歩いている。この家を訪れてから近衛斎が目にした人間の中で、名護真崎の姉と目の前の男だけがスーツを着用していた。
「私の言葉を、信じていただけるのですか?」男は前を向いたまま訊ねた。
「信じる?」近衛斎は、ひとり、口角を持ち上げる。「可笑しなことを仰るのね」
「もちろん、先ほど名乗った名が本名です」男が答えた。
「直継の研究所にいた研究員の言葉を、この私に、信じろと仰るの?」
 男は、ようやく歩みを止めた。
 静かに、彼女と向かい合う。彼女も足を止め、男を正面から睨みつけた。
「覚えているわ。たしか、一度、私の耳に穴を開けたことがあったかしら」
「はい。流出及び繁殖禁止個体に対しておこなった不妊措置の識別のために開けました」
「穴は開いたままです。ご覧になる?」彼女は右耳に髪をかけて、微笑んだ。
「大変申し訳ありませんでした」男が頭を下げた。「貴女が望むのであれば、土下座いたします」
「結構です」少女は冷たく言い放つ。「不愉快だわ。客室の場所は口頭で説明して」
「ですが⋯⋯」
「今すぐ、この場を立ち去って」
「突き当たりを右に曲がり、最奥の部屋になります」男は再度、頭を下げた。「失礼します」
 男の姿が見えなくなってから、彼女は客室に向かう。障子を開けると、暗い部屋の中央に、彼女の荷物が置かれていた。それを確認し、彼女は障子を静かに閉める。
 肌寒い夜だった。スカートが揺れ、少女の黒髪が緩やかに靡く。そのたびに、冷気で研ぎ澄まされた風が彼女の躰の芯を凍てつかせた。
 少女は、部屋に背を向ける。
 回り廊下は外に面しており、黒い森が不気味に揺れ動く様子が見渡せた。
 少女は廊下の端に立つと、その場で腰を下ろした。
 いつまで、そうして座っていただろう。
 頬が冷たい。
 足は、硬直したように動かない。
 少女の足許には低い石段があり、その上に一足だけサンダルが置かれていた。
 いつでも逃げられる。
 けれど、少女の足が動くことはなかった。
「近衛さん」
 その呼びかけに、少女は顔を持ち上げて、横を向いた。二メートルほど離れた場所に、名護真崎が立っている。灯りはなく、彼の表情を伺うこともできない。
「素敵なお家ね。とても静かで、良いところだと思います」
 少女はいつもより軟らかな声を意識して、微笑みを浮かべた。
 この敷地に足を踏み入れてすぐ、彼女は、かつてジンという名の研究員だったはずの、方丈永と名乗った男の姿を見て、咄嗟に青年の服の裾を握った。今すぐ引き返さなければ、と思った。今すぐ逃げなければ、と思った。それは不可能だと理解していても尚、そう思わずにはいられなかった。
 己の指先や声が震えていることに、彼女自身が驚いた。青年も、少なからず驚いたはずだ。だからこそ、少女は今、穏やかに笑ってみせることで青年の疑念を取り払わなければ、と考えた。
 しかし、青年は俯いており、彼女の微笑みは届かない。
「あんたに引き止められたとき、あんたの言うとおり、逃げれば良かった」
 青年の静かな声に、少女は微笑みを止め、僅かな困惑を滲ませた。
「名護くん?」
「あんたを此処に連れてこなけりゃ良かった」青年は、拳を握り締める。「なんで、あんなバカなこと言っちまったんだよ」
「貴方、もしかして⋯⋯」少女はそう呟いてから、顔を背けて正面を向いた。「そう。もうお聞きになったのね」
 青年は、廊下から外に下りた。石段の上に置かれたサンダルを履いて、青年は立ったまま、廊下の端に腰かける彼女と向かい合う。
「なにがあんたを、そこまで突き動かしてんだろうな」
「なにかしら⋯⋯」彼女は、自分でも驚くほどに落ち着いていた。顔を上げ、薄く微笑みを湛えて小首を傾げる。「それとも、これが感情というものかしら?」
「せっかく、助かったのに」
「貴方のおかげです。本当にありがとう」
「なんで」青年は何度か首を弱々しく振って、俯いた。「なんで、笑ってんだ」
「これが、私の本心だからよ」
「本心?」
「私が屋上から飛び降りたあと、病院で目を覚まして、久遠くんに怒られてしまったとき⋯⋯、彼が言っていたでしょう。彼は、私がどうしたいのかを訊ねている、と」少女は目を伏せた。「貴方たちを助けたい、という気持ちは嘘じゃないわ。だから飛び降りたのよ。でも、たしかに私は、飛び降りることを躊躇わなかったわけじゃない。そのときは、本能的な防衛反応に逆らうためのエネルギィだと思っていたけれど⋯⋯、きっと、それだけではなかったのね」
 少女は揃えた膝の上で両手を組んだ。
 冷えきった指の皮膚同士が、祈るように触れ合う。
「一目で良いと思っていたはずなのに」肩から、髪が一束、音もなく滑り落ちる。「もう少しだけ、あの人の傍にいたいの。もう少しだけ、生きていてもいいって、許されていたいの」
「だったら、」
「だから、私を囮にと、私から進言しました」少女は、瞼を閉じる。「そうすれば、今すぐに殺されることがないから。そうすれば、あの冷たくて暗い場所に戻らなくて済むから。一日だけでも長く、貴方たちの傍にいられる。私がそう望みました。貴方たちを助けたい、という気持ち以外の、私の、自分勝手な願いを、少しくらい、叶えてやるって、私、初めてそう思ったのよ」
 少女はそこで、ほんの少し、口角を持ち上げた。
 睫毛を震わせる。
 瞬き。
「貴方が私を忘れても、私は、貴方たちとの思い出を、最後まで、すべて抱いていくから」
 大丈夫、と呟いた。
「あの人が全部忘れても、初めからなにもかもなかったことにされても」目を伏せて、唇を嚙み締める。「それでも、私は全部覚えているから」
 だから、と呟いた言葉の先は、震えた吐息ばかりが満ちていた。
 俯く。
 肩を僅かに揺らして、
 けれど、それを制するように。
 強く、強く、己の両手を握り締める。
「私、なにも残していけないけれど」震える指を抑えつけた。「貴方たちの記憶の中に、留まることもできなくて」震える息を、呑み込んだ。「そのときにはもう、私は、貴方たちの隣に立つこともできないけれど」
 顔を上げた。
 少女は微笑む。
 綺麗に。
「なによりも、貴方たちの幸せを願っているわ」
 青年の顔は歪められていた。眉を寄せ、唇を嚙み、拳を震わせている。
 『名護真崎』は逃げられない。血からも、役目からも逃げることができない。組織と個人の狭間で、きっと誰よりも苦しむことになる。もうこれ以上、彼を縛りつけるわけにはいかなかった。
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「はい」青年は大きく息を吸って、静かにその場で片膝をついた。幽かな砂利の音が、夜の闇に吸収される。
「もしもそのときがきたら、私に五秒だけ時間をくださる?」
「はい」
「ありがとう」彼女は組んでいた指を解き、片腕を前に伸ばして、青年に差し出した。「どうか、幸せでいてね」
 青年が、少女の手を取った。
 彼の手は、熱いほどに、温かな手だった。
「命に代えても、忘れません」
 それが慰めの言葉に過ぎないことは、わかっている。
 けれど、近衛斎は、ついに涙を堪えることができなかった。