第六章 霜降

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 実家に到着してすぐ、近衛は兄に連れられて応接間に向かった。ふたりを見送ったあと、自分は自室に荷物を置いて真崎とふたりで食堂に向かったが、真崎は食堂に到着してすぐに席を立った。しばらく待ったが、戻ってくる様子はない。
 畳の上で胡坐をかき、意味もなく携帯の電源を入れたり切ったりしていると、やがて襖が開けられた。
「お帰りなさい。こんな夜遅くに、疲れたでしょう」真崎の母がお盆を持って入ってきた。「あら⋯⋯、真崎は?」
「ただいま。なんか、先食っといて、って言い残してどっか行きました」
「そうなの? それなら、狭霧くん、お先にどうぞ」
「ありがとうございます」
 机の上に夜食が並べられた。男子高校生二人分の夜食ともなると、通常の夕食と変わらない量だ。手を合わせてから箸を持ち、食事に手をつけていく。真崎の母は、少し離れた場所に座って此方の様子を見ているようだった。
「あの、すみません。急に夜食、作ってもらって⋯⋯」
「気にしないで、たくさん食べてくださいね。食べ盛りの男の子なんだから」
 彼女がどんな顔をしていたか、その記憶は既に薄れている。しかし、いつも少しだけ困ったように眉を下げて微笑みを浮かべていたことはよく覚えていた。
 昔から、彼女は優しい人だった。顔つきや声も軟らかく、おっとりしているという印象が強い。どうやら、真崎や真墨は父親似らしい。普段は、電話対応をしていたり、修行僧たちと共に食事の用意を請け負っている。休みは基本的になく、電話は二十四時間対応だ。常に忙しいはずだが、それを表に出すことは一度もなかった。
 母を知らない自分にとって、彼女は母親代わりの存在でもあった。
「最近いろいろと忙しいみたいだけど、狭霧くんも、体調や事故には気をつけてくださいね」
「忙しい、ですか?」麦茶に口をつける。「正直、俺、なんで呼び戻されたかよくわかってなくて⋯⋯、おばちゃんはなんか知っとる?」
「なにも」そう答えてから、彼女は少し笑ったようだった。「きっと、私がいちばん、なにも知らないと思います」
「おばちゃん、嫌じゃないん?」
「嫌って、なにが?」小さな子どもに問いかけるような声音で、彼女は訊ね返す。
「自分だけなんも教えてもらえへんのって、嫌じゃないんかなって。なんか、自分だけ除け者にされてるっていうか、部外者っていうか。お前にできることなんかないぞって言われとるみたいで、悔しかったり、寂しかったり、もどかしいっていうか⋯⋯」
「そうねえ⋯⋯」
「俺が子どもっぽいだけかもしれんけど」
「それは、狭霧くんが子どもか大人か、ということではなくて、それだけ、自分に隠しごとをしている人たちのことを、それでも大事に思っているからでしょう」
「大事?」
「私も、寂しいと感じたことは何度もあります。でも、あの人が⋯⋯、真蔵さんが私になにも仰らないのは、私を巻き込みたくないからだということも知っています。私のために、あの人は私を余所者にしていて⋯⋯、だから私は、ただ、このお寺が問題なく運営できるようお手伝いをするだけよ。私にできることは、元気に毎日を過ごすことくらい、ということかしらね」
「真崎のこと、心配にならん?」
「もちろん、心配です」彼女は穏やかに言った。「でも、狭霧くんがひとりで背負うものでもありませんからね。真崎がなにをしているのか、これからなにをしなければならないのか、私にはわからないけれど、それはあくまで真崎の問題だから、狭霧くんが、罪悪感をひとりで背負いこむ必要はないわ」
「でもやっぱり、少なからず、俺のせいもあると思う」
「誰もが少なからず背負うものですよ」彼女は、不意に小さく手を合わせて音を鳴らす。「そうそう、そういえば、今回の帰省はお客さんといっしょだと聞いていたのだけど」
「あ、うん。お客さんっていうか、同級生なんやけど」
「お名前は?」
「近衛っていう、女子」
「あらまあ」
「父さんが連れてこいって言うたから連れてきただけやからな」
「ええ、わかりました」彼女は息を零して笑った。
「そういえば、ちょっとお願いがあるねんけど」箸を茶碗の上に置く。「そいつ、ちょっと躰が弱いっちゅうか⋯⋯、いろいろ事情があって、食事もほとんど摂らへんねん。アレルギーとかではないんやけど。せやから、その、明日の飯とか⋯⋯」
「あら、それならちょうど、果物があるわ。今日いただいたのよ。朝ご飯の代わりに、果物はどうかしら」
「果物か。ええな、それでお願いします」
「その子は、食堂においでになるの?」
「いや、うーん、あいつのことやし、遠慮しそうやから、自分の部屋で食べてもらったほうがええかも」
「そうね。肩身も狭いでしょう」
「うん⋯⋯」
「できるだけいっしょにいてあげてね」
「それはそれで、近衛の邪魔になる気もするけど」
「こんなところでひとりぼっちにするくらいなら、邪魔になるくらい、相手をしてあげたほうがいいわ」
「うん」箸を手に取った。「そうする」
 その後、黙々と夜食を食べ、二十分ほどですべて平らげた。しかし、真崎はまだ戻ってこない。真崎のために用意された夜食は既に冷え切っている。
 自分の皿を水場に戻し、食堂をあとにした。虫の声を聴きながら、広い廊下を歩く。障子から滲む暖色の灯りと、秋の夜闇の狭間に廊下が浮き出しているようだった。
 真崎の行方が心配だった。近衛がどの部屋に泊まるのかも、自分は知らない。
 やはり自分には、真崎の母のように、割り切って行動することはできそうにもない。どうしても、焦燥に駆られてしまう。不安で、妙に苛立たしくて、もどかしい。
 なにか。
 なにか、大事なことを、自分は知らない。
 それだけはわかる。
 やはり自分には、なにもできないのだろうか。
 次の瞬間、自分の躰が傾いていた。
 それを知覚したときには既に廊下に膝をついており、廊下の冷たさを感じた頃に、ようやく目眩を覚える。
「俺が果物食ったほうがええ気がしてきたな⋯⋯」
 独り言を呟きながら、手をついて立ち上がろうとして、目を開ける。
 足があった。
 驚いて顔を上げると、ちょうど、廊下の曲がり角から人が現れた。
「若様?」声をかけられる。「どうされましたか?」
 此方に駆け寄り、すぐ傍で膝をついた。スーツを着ている。聞き覚えのない、男の声。
「大丈夫です、えっと⋯⋯」
「大変失礼いたしました。方丈えいと申します」男は、抑揚のない口調で答える。
「永⋯⋯」その名前には聞き覚えがあった。「たしか、長いこと余所よその寺におったんやったっけ」
「はい。若が上京されたあとに此方に戻ってきましたので、ご存じでなくとも無理はないかと」
「すみません」
「いいえ」男は此方に手を差し伸べた。「立てますか?」
「大丈夫です」自分の膝に手を置き、その場に立ち上がる。
「どこか具合でも悪いのですか?」
「ちょっと目眩がしただけで⋯⋯、なんやろ、眠いんかな」
「ええ、長旅でお疲れでしょう。本日はゆっくりお休みください」
「ありがとう」
 軽く頭を下げて、その場を離れる。
 頭の片隅に、僅かな痛みが残留していた。