第六章 霜降

     6/久遠狭霧

 真崎と別れたあと、自室に戻ってすぐに畳の上で仰向けになった。昼寝をしようとして、しばらく目を閉じていたがうまく眠れない。目を開けて天井を眺めている間も考えごとばかりで休まらず、結局、躰を起こして自室を出た。
 あてもなく廊下を歩き回っていると、曲がり角を曲がったところで、次の曲がり角から此方を覗く子どもと鉢合わせた。作務衣を着ていることは辛うじてわかったが、かなり強い歪み方をしている。幼い子どもは歪みが強いことが多く、その上ランダムに歪んでおり、歪み方で識別することが難しい。声を聞かなければ、目の前にいる少年が、この寺が引き取った方丈の子どもたちのうちの誰なのかを判別することができないだろう。
「そんなとこでどうしたん?」二、三歩近づいて、腰を屈めた。「誰かに用事?」
 会話を試みようとして、できるだけ優しい声音を意識した。しかし、子どもはなにも答えずに顔を引っ込めてしまった。
 真崎や兄が相手であれば、彼も口を開いたかもしれない。
 思わず自分の口許を触ったが、今さら笑みを作ってみたところで意味はなく、滑稽な自分ひとりだけが廊下に取り残される。
「あ、狭霧くん」真崎の母の声。声がした方向に顔を向けると、先ほど少年が顔を引っ込めた曲がり角から、真崎の母が此方に向かって歩いてくるところだった。「ちょうど良かった。ひとつね、訊きたかったことがあるの」
「あ、はい」顎に触れていた手を下ろす。「なんですか」
「お客さん⋯⋯、近衛さんの夕食のことなんだけれど、どうしましょう? ほら、お躰が弱くて、お食事もほとんど摂られないって⋯⋯」
 真崎の母は、片手を頬に添えるような動きを見せた。古典的な仕草だが、彼女がすると、とても自然な動作のように思われる。
「そうやねん。あいつ今、ほとんどサプリメントで栄養を摂ってるから、食事に慣れてなくて⋯⋯、あ、でも、ちっちゃいおにぎり一個とか、卵焼き一個とかなら食べられるけど。もしかしたら、一口サイズなら、それ以外でも食べてくれるかもしれん」
「朝食でお出しした果物は、何切れか食べていらっしゃったから、それにしましょうか?」
「そうなんや」全く手をつけない可能性も考えていたが、杞憂だったようだ。「じゃあ、それでお願いしてもええですか」
「もちろん。あ、でも⋯⋯、お薬との飲み合わせは大丈夫?」
「薬は特に飲んでなかったと思う。一応、嬢さんに確認してみるけど」
「今は真墨とショッピング中だそうよ」彼女の声がわかりやすく弾んだ。「さっき、連絡がありました。狭霧くんにも連絡したって、真墨が言っていたけれど」
「え、そうなん?」咄嗟に作務衣のポケットを探ったが、どのポケットにも、なにも入っていない。「そうや、携帯、部屋に置きっぱや」
「同年代の女の子とショッピングができるって、あの子、珍しく喜んでいたわ」
「それなら良かったんやけど」真崎の母の、少し高くなった声に釣られて、自分の口許も僅かに弛む。そこで、不意に思い出した。「そういえば、さっき、子どもとすれ違わんかった?」
「子ども?」
「作務衣着た男の子が、ついさっきまで、そこにおったんやけど」
「いえ⋯⋯」彼女は一度、後ろを振り返ってから、此方に向き直って首を傾げた。「廊下から外に降りて、走っていっちゃったのかしら?」
 真崎の母とはその場で別れ、自分はそのまま、辺り一帯を徘徊してから自室に戻った。充電器に差しっぱなしにしていた携帯の画面を点けると、メッセージの通知が届いている。真墨からのメッセージを読み、返信をしてから、動画サイトにアクセスした。動画の中でも生き物は歪み揺れて視えるため、視聴履歴はもっぱらゲーム実況だ。しかし、興味は長く続かず、少し見ては別の動画に飛び、またすぐに別の動画を見る、といった不毛な時間だった。
 夕食の時間が近づき、食堂に向かった。腹を空かせた子どもたちばかりで、どうやら今日は空席気味のようだ。真墨はいない。兄もいなかった。直前になって真崎が現れたものの、いつもより疎らに机を囲み、黙々と食事を摂る。
 食事を終えてから、二時間ほど時間を潰した。明日の昼に実家を出発する予定になっている。ほとんど荷物はなかったが、ひととおり持ち帰るものをまとめたあと、再びあてもなく外に出た。
 夕方にはなかった、厳しい冷たさを感じる。
 あっという間に、夏が終わり、そして、秋も終わる。
 真っ暗な山の中を下りる。
 自分の足音。
 葉の擦れる音。微風。
 遠くから、虫の声。
 闇の中に佇む御堂に向かった。
 人がいないことを確認して、中に入る。境内にはいくつかの御堂が点在しているが、その中でも少し離れた場所に建っている小ぢんまりとした御堂だ。御堂の中は、寒いというよりも、氷に手を近づけたときのような涼しさが残っていた。
 仏像の硬く鈍い質感が、暗闇と静寂の中から僅かに浮かび上がっている。
 吸い込んだ空気も、心なしか軽い。
 この寺のことも、僧侶という仕事も、仏像のことも、自分はあまりよく知らない。けれど、ときどきこうしてこの場所に足を運ぶことがあった。なにかに悩んだとき、どうしようもなく感情の整理がつかなくなったとき、此処に足を踏み入れて息を吸えば、頭がクリアになる気がした。
 数分間、ただなにもせず、御堂の中で立っていた。
 御堂から出て庫裡の自室に戻り、文机に置いているコンパクトな電気スタンドを手に取って、近衛がいる客室に向かった。客室の障子が灯りに照らし出されている。廊下から声をかけると、障子が開き、近衛が姿を見せた。制服ではなく、白色のニットと、蛇腹のような細い折り目がついた、ひらひらとした明るい茶色のロングスカートを着ている。
「おかえり」客室に入りながら、彼女に声をかける。
「ええ」近衛は素っ気なく返事をした。
「これ、昼間に言うとった電気スタンド」客間の中央の机に電気スタンドを置いた。机の上には、昼にはなかった数冊の文庫本が置かれていた。「どうしたん、この本」
「真墨さんが、何冊か貸してくださったの」障子を閉めた彼女は、机を挟んで向かい側に座った。「このお家の本だけど、誰も読んでいないからご自由に、って」
「へえ⋯⋯」その場に座りながら、もう一度机の上を見る。いちばん上にある本の著者は太宰治だった。「中学のとき、国語の教科書でちょっと読んだような気がする」
 顔を上げる。正面に座る彼女は、目が合うと、小首を傾げて微笑んだ。
 近衛は、制服を着ていたときよりも大人びて見える。違和感がなく、とても自然な装いだった。
「その服⋯⋯」
「やっぱり、可笑しい?」
「そうじゃない」首を振った。前髪が目にかかり、指で払う。「嬢さんに合ってると思う」
「ありがとう」
「買い物、楽しかったか」
「ええ」
「俺にしてほしいこと、なんかある?」
「え?」近衛は驚いたように、一度瞬き、目を見開いた。
「なんやろ、なんていうか⋯⋯」彼女から視線を外し、襟足を何度か掻き毟る。「いや。やっぱ、なんでもない」
「久遠くん?」
「お前の暇潰しに付き合うくらいなら、俺にもできるかと思ってたんやけど。それも、真墨がおってくれたし⋯⋯、ごめん。俺、自分がなんもできひんからって、ちょっと躍起になっとったみたいやわ」
 一度、唇の端を嚙む。
 机の上に置いた、自分の電気スタンドを見た。それから、近衛のほうを見る。
「ごめん。邪魔やったら、すぐ出ていくから」
 今の彼女は、目を離した瞬間、どこからもいなくなってしまいそうだった。
 だから、こんなことを思うのだろう。
 一瞬でいい、
 彼女の意識に触れたい。
 表面を掠めるように。一瞬の抵抗を、彼女の意識に、残したい。
「あとちょっとだけ、此処におっても、ええか」
 彼女の長い睫毛が繊細に震えた。
 睫毛の影。
 揺れる前髪。
「私⋯⋯」彼女の声が発せられた瞬間、微睡みのように停滞していた空気が、瞬時に乾き、緊張して、クリアになった。「今、とんでもなく暇を持て余していたの」
「え?」
「暇潰しに、付き合ってくださるんでしょう」
 彼女は此方を見て、目を細める。
 目が合った。ちゃんと、彼女が俺を見た。
 たったそれだけで、先ほど自分を襲った不安が軽くなっていくのを感じた。
「うん」
「いつまで?」
「何時間でも」
「貴方がいてくれるなら、きっと、灯りがなくたって平気だわ」
「なんか、とんでもないこと言うてへんか、自分」机に片手をつき、勢いをつけて立ち上がる。「ちょっと待っといて。飲み物、持ってくる」