第六章 霜降

     2/名護真崎

 足音を消して、息を殺す。
 応接間に面した廊下。柱に身を隠して様子を伺うが、この距離では閉めきられた障子の向こうを窺い知ることはできそうにもない。しかし、これ以上近づけば、間違いなく父に気づかれる。
 あのとき、彼女の様子は尋常ではなかった。
 服の裾を握り締めた、弱い力。微動する指。明らかな怯えの表情。
 彼女が繰り返した言葉を思い出す。
 早く、戻らないと?
 戻る?
 戻るって、どこに?
 逸る気持ちに突き動かされて、柱から少し身を乗り出そうとしたそのとき、障子が静かに開けられた。応接間から、久遠陽桐だけが現れる。彼はいつもと同じ法衣姿だったが、表情は普段とかけ離れていた。笑みを落とし、弟の狭霧とよく似た険しい表情を浮かべている。常に柔和な笑顔を絶やさない彼が、露骨に眉を顰めている様子は異様に思われた。
 久遠陽桐の目が、此方に向けられる。
 息を止めた。
 すぐに、視線が逸らされる。彼は背中を向けて廊下の闇に向かって歩いた。黒い法衣姿は、あっという間に闇に溶け込み、輪郭を見失う。
 此方の存在に気づいた上で、彼は無視したのだ。
 その意図がわからず、眉間に力が入る。
 それ以降、応接間に近づくことも食堂に戻ることもできずにいたが、十分も経たないうちに、もう一度障子が開けられた。ひとりの男と、ひとりの少女が姿を見せる。黒いスーツを着た男と、制服姿の少女。長い黒髪から覗く、昏い緑色のブレザーと同じ色のリボンタイ。グレイのプリーツスカートが僅かに揺れる。彼女は部屋に向かって頭を下げたあと、静かに障子を閉め、男の後ろをついて歩く。自分の前を通り過ぎたが、笑みのない横顔から彼女の表情を読み取ることはできなかった。
 彼女たちの姿が見えなくなった。
 その場を離れようとしたときだった。
「真崎。そこでなにをしている?」
 応接間から父に呼びかけられる。障子は閉められたままだ。いつから気づかれていたのだろう。いや、それよりも、自分はどうするべきなのか。
 このまま地面に飛び降りて走れば、この場からは逃げられるかもしれない。
 けれど。
 意を決して、応接間の前に立つ。障子に手をかけて、息を吐き出し、勢いよく開けた。
 自分の父。
 それから、狭霧の父である、久遠照雪。
「座れ」父の短い言葉。
 返事はせず、座布団の上に座って胡坐をかく。正面に狭霧の父、その左隣に自分の父が座っている。どちらも法衣姿のまま、重苦しい沈黙の中で腕を組んでいる。
「柱に隠れて、なにをしていた?」
「べつに。ちょっと心配になって、様子を見にきただけだ」できるだけ平常を装って答えた。「オレに聞かれたくねえ話でもしてたのかよ」
「どちらにせよ、君には話しておかなければならない」狭霧の父が重々しく口を開いた。「予定よりは少々早いが、彼女も即答したことだ。かまわないだろう」
「即答?」
「今後、我々にその命を預けること」彼は、眉ひとつ動かさない。「その条件で、双方合意した」
「命って⋯⋯」思わず胡坐を崩し、腰を浮かす。「は⋯⋯、なんだよ、それ。意味わかんねえ。条件? なんの条件だよ。大体、女子高生の命を握る坊主って、世も末だな」
「真崎、言葉を慎め!」父が鋭く叫んだ。
「どう考えたって可笑しいだろ!」
「彼女が屋上から飛び降りた理由を、知っているか」狭霧の父は片手を持ち上げて手のひらを見せ、此方の動きを制した。「彼女は、あの忌まわしき直継が儀式のために生み出した例の実験体⋯⋯、それも、唯一の成功サンプルだ。しかし、なんらかのアクシデントで、成功の証たる『彼女』の人格、意識が確認不能となり、彼女は殺処分が決定していた。その処分直前に、事故により呪術をその身に受けて脱走し、逃げ延びて今に至る。その呪いの内容は、『出会うこと』。解呪条件はその場で自害することだったが、彼女は呪いを受け入れて脱走した」
 滔々と述べられていく事実に、思わず言葉を失う。たしかに、近衛斎本人から訊いた話のとおりだった。しかし、それが久遠照雪の口から語られている、という事実が理解できない。
「彼女は、脱走した実験動物として直継に追われている身だ。その彼女が呪いを達成する、つまり、彼女が倅と接触すれば、君たちが直継にマークされ、陰謀に巻き込まれることに他ならない。その前に自ら命を絶つことで彼女はそれを回避しようとしたが、奇蹟的に助かり、君たちは直継の目に留まってしまった」
「その直継ってのは、そんなにやべえことしてる組織なんすか」
「なんとしても阻止しなければならない。非人道的な実験など、彼らにとってみれば、悲願成就のための足がけに他ならん」
 一度、息を吐き出す。
「彼女から、一連の話は既に聞いています」言葉を選びながら、慎重に口を開く。「しかし⋯⋯、たとえ本当に、彼女が原因で我々が巻き込まれることになってしまったのだとしても、彼女だけを責め立てることはできません。まして、我々が彼女の命を左右しても良い、ということにはならないと思います」
「私は、君たちを守りたいだけだ。あの直継の手から守るためならば、手段を選びはしない」
「だからって、そんな、⋯⋯彼女に、命を以て償わせるような真似が許されるとお思いですか」
「私が許される必要はない」狭霧の父は、睨むように、目を僅かに細めた。「償いも不要だ。私はただ、守るべきものを守ることができれば良い。直継を排除し、世の平穏を得ることができればそれで良い」
「狭霧が許しません。誰よりも、狭霧がそれを良しとしないはずです」
「だからこそ、だ」彼は少し俯き、目を閉じた。「この場で彼女を殺すこともできた。捕らえ、あの組織に明け渡すこともできた。しかし、彼女が狭霧に与える影響は無視できない。であれば、我々は彼女を生かす。あと一度だけ囮になれる、と彼女は言った。そのときが来るまで生かし、囮としての役割を果たしてもらう。そうすることで君たちを守ることができ、そうすることで己の罪を償えるのであればと提言したのは、他ならぬ彼女だ」
「だからって、」もう、我慢の限界だった。「あいつが、近衛さんが、一体なにしたっていうんだよ!」
「真崎!」父が立ち上がる。
「そりゃあ、オレらを巻き込んだかもしれねえけど、けどさ!」
「彼女を囮にして、狭霧を連れて無事に逃げ果せること。君には、それを頼みたい」
しょうせつさま!」
「真崎」父の唸るように低い声。「黙れ。その場に座り、頭を下げろ」
 全身に、見えない刃先が一斉に突きつけられた。
 あと少し身動ぎすれば、薄い皮を突き破り、切り裂かれる。
 そんな、強烈な圧力だった。
 指先を動かすことさえできない。父の許しなく、視線を動かすことさえできない。
 そうだ。オレは、名護家の人間だ。父に逆らうことなどできない。久遠照雪に逆らうことなどできない。久遠寺という組織に逆らうことは、許されない。
 それが、『名護真崎』として受けてきた教育のすべてだ。
 正座をし、手をついて、頭を下げる。
「大変、失礼いたしました」俯いたまま、唇を嚙み締める。「申し訳ありません」
「狭霧には決して話さないように」衣擦れの音。久遠照雪が立ち上がり、此方に向かって数歩。「他言無用に願いたい。大丈夫だ。君が、罪悪感を抱く必要はない」
 すぐ傍で立ち止まり、彼はその場で膝をついた。
 オレは、頭を下げたまま。
 彼の影に覆われる。
 一拍の間。
「すべてが終われば、狭霧からも、君からも、彼女に関わる記憶はすべて消去する」