第十章 大寒

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「報告って⋯⋯」
 吐き出した息は僅かに震えていた。
 小屋の隙間から此方を刺す冬の空気で、息が白く染まっている。
 視線を逸らせないまま。
 数秒間、沈黙がこの場を支配した。
「もしかして⋯⋯、まさか、なんか気になることでもあった?」
「べつに。そんなのあったら、あんたの言葉遮って真っ先に報告するわ」
「そらそうなんやけど⋯⋯」
「ちょっと頼まれたから、仕事をひとつ、引き受けることにしたの」
「頼まれた?」珍しくいまいち要領を得ない真墨の言葉に、眉を顰める。「なにを?」
「弟が散らかしたおもちゃの後始末っていう、ちょっとした仕事」
「は?」
 鼓動が僅かに速まった。
 その言葉が意味すること。
 理解を拒んでいる。
 けれどそれよりも早く、理解した。
 理解、してしまった。
「なに、まさか、真崎くん⋯⋯」思わずその場に立ち上がる。「よりにもよって、お前を?」
「なによ。悪い?」
「悪いもクソもあるか、」小屋の入口に向かい、真墨に詰め寄る。「今すぐ手ェ引け。いくらお前の実力がたしかや言うても、この件にお前が嚙むことだけは許可できひん」
「あんたの許可なんていらないわ」真墨は僅かに顎を持ち上げて言った。「言ったでしょ。これは報告なの。あたしはあんたに、わざわざ事前に報告してやってんのよ」
「相手は錫杖一本でどないかできる相手ちゃうんやぞ!」
「馬鹿にしないで」真墨が目を細めて吐き捨てる。「そんなこと、はなからわかってるわ」
「お前⋯⋯」額を押さえて頭を抱えた。「嘘やろ⋯⋯」
「さっきからなんなの? べつにいいじゃない。それに、あんたにとっても悪い話じゃないはずだけど」
「どこがやねん、悪い話しかないやろ」
「どのみちあたしは弟のところに顔出すんだもの。あんたも同じ行き先なんでしょ?」
「ほんまに待って、真墨、頼むから、」
「だったら、ちょうど良かったじゃない」
「真墨!」
 背後で一度、炎が弾ける音がした。
 いつの間にか、真墨は顎を引き、此方をまっすぐに見据えている。
 正面から。
 逃げ場なく。
「これ以上、お前がこっちに足踏み込む必要はない。地獄が口開けて待ち受けとるようなところにわざわざ足入れるほど、お前は阿呆ちゃうやろ」
「あんたはどっぷり浸かっといて、よく言うわよ」
「俺は生まれたときからこっち側や。でも、お前はちゃうやろ。お前を縛っとるんはお前の生まれでも、お前の血でもない。俺がお前を、此処に縛りつけとるだけや。お前は簡単に自由になれる、お前は、いつでも、」
「縛られてる?」真墨は眉を寄せて、口を斜めに釣り上げた。「あたしが? あんたに?」
「真墨、」
「笑わせないで」唐突に、真墨は表情を落とす。「反吐が出る」
「頼む、真墨、お前は⋯⋯」
「ずっと、あんたに言ってやりたかったことがあるのよ」
 真墨は一歩、此方に踏み込む。
 いとも容易く詰められたその距離が、すべてを物語っていた。
「あんたって、自覚してることとやってることが随分ちぐはぐなのよね。若様のこと、好きなのか嫌いなのかもよくわかんないし」
「いや、そこはほら、いろいろあるからさ⋯⋯」曖昧な笑みを向ける。「一言でそう簡単に言えるもんでもないっていうか」
「自ら悪役買って出てまで、あの子たちに自分を疑わせて、この家から追い出したいわけ?」
「さあ。悪役買って出た覚えは特にないなあ」
「あんたはそうやって、あの子たちのことも、その独りよがりな判断で、自分が自由にしてやろうとでも思ってるわけね」
「真墨」意図したよりも、低い声が出た。「そろそろ、俺も笑ってられへんのやけど」
「あんたお得意のへらへらした嘘っぱちの顔より、今のほうがよっぽどましよ」
 真墨が突如、此方の胸倉を掴む。
 俺を無理やり引き寄せ、威嚇するように歪めた顔を近づけた。
「教えてあげるわ。あんたの守り方は、あんたが守りたかったものもろくに守れないまま、なにを守りたかったのか自覚することもできずに、救えないまま、許されないまま、ただ失うだけよ。それをよく覚えておくことね」
 真墨はそれだけを言い残して、音もなくその場を去った。
 簡単に背中を向ける。
 なんの未練もなく、扉を閉める。
 此方を振り返ることもない。
 彼女の言うとおり、こうして、自分はなにかを失っていく。
 ずっと、肝腎なことだけはわからないまま。
 けれど俺は、この役目を背負い続ける。
 虚脱感。
 自分に最後まで残るものは、この痛みだけ。
 今さら、なにを伝えられる?
 今さら伝えて、なにが得られる?
 失ったという事実だけだ。もう二度と掌中にすることはできないという事実だけを、自分は得るのだ。
 この躰は、そろそろ限界を迎えている。
 つまり、それだけ、弟のタイムリミットも近づいているということだ。
 やはりあのとき、近衛斎を殺しておけば良かったのか?
 やはりあのとき、生まれたばかりの弟を、殺しておけば良かった?
 どうすればよかった?
 あのとき、弟と向き合ってやれば良かったのか?
 今、真墨に本音をぶつけてしまえば良かった?
 そうすれば、自分の手許には、なにかが残った?
 違う、
 なにかを得たいわけではない。
 なにかを残したいわけでもない。
 これが自分のなすべきことで、
 これが自分の、生まれた理由だ。
 だから。
 だから。
 ただ、それだけだ。
 最後には、孤独に地獄へ落ちることなど、初めからわかりきっていたことだ。
 俺がなにをしたわけではなくとも。
 俺がなにをしようとも。俺が、なにを成さずとも。
 生まれたときから決まっていた。
 俺は、
 きっと、それが必要ならば、いつだって、誰かの命を奪える。
 見ず知らずの人間でも。方丈家の人間でも。近衛斎でも。真墨でも、真崎くんでも。
 父でも。
 弟でも。
 自分自身で、さえも。
 その事実だけで、
 その在り方だけで、
 地獄に落ちるのは、簡単だ。
 そうか⋯⋯、
 だから、未練になり得るものを、自分は排除したのだ。
 避けてきた。退けてきた。
 手を取ることも、差し出すこともしなかった。
 問題はない。
 それが、久遠陽桐として生まれ落ちた男にとっての、最善だ。
 爆ぜる炎を見る。
 炎の中から、今、視線を浴びている。忌々しい存在感がそこに在った。法衣の袖の中で印を結ぶ。炎の周囲一メートル四方に張っていた結界を、断ち切った。
 火を断ち切る。
 そうしていつか、全てが終わる日をこの躰は待っている。
「寒⋯⋯」その呟きは、この狭い小屋の中に満ちることもなく消えていった。
 小屋を出て、人気のない道を進み、護摩堂に立ち寄る。今この時間であれば、父がいるはずだと見越してのことだった。
 予想どおり、建物の鍵は開いていた。扉を開けると、本堂で毎朝おこなわれる護摩祈祷を終えた父が、そこにいた。
「躰は、まだ持ちそうか?」父は此方を振り返ることもなく、そう言った。
「なんで、狭霧が生まれたときに殺さんかったん?」
 父の動きが止まる。
 無音。
「なんで、父さんが、皆が、そこまでして、守らなあかんの」
「まだ夢でも見ているのか?」乾いた衣擦れの音。父が静かに此方を振り返った。「それとも⋯⋯」
 数秒間。
 父が此方を見ていた。
「仮に、今代、殺していたとしてもだ」父が再び、重々しく口を開く。「いつかまた必ず復活する。あれはそういう性質のものだ。お前もそれは、よく理解しているだろう」
「でも⋯⋯」
「ならば、ここで終わらせる。それだけのこと」
「父さん、」
「部屋に戻って、着替えなさい。皆が起きてくる前に庫裡に戻ったほうが得策だろう」
 父はそう言って視線を外し、此方に背を向けた。
 それから、父が振り返ることは二度となかった。

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