第十章 大寒

     3/久遠陽桐

 狭霧が生まれたとき、自分は七歳だった。
 器となる人間が生まれ、母は記述どおりに四肢が千切れて亡くなった。けれど、母を失った哀しみを実感するよりも先に、これから自分が背負う役目について父から説明された。久遠家の嫡男として生まれた自分の血。役目。この器だけは、お前の弟だけは、絶対に守らなければならないのだと、何度も、何度も。
 初めてそれを説明されたとき、この赤ん坊を今、殺せばいいと思った。
 そうすれば、少なくとも『器』となる人間が再び生まれるまでは、アダムと呼ばれる存在が復活することはない。けれどあくまで、父はこの子どもを、最後までなにごとも知ることなく守りとおすべきだと考えていた。
 そしてこの子どもを守るために久遠寺が選択した方法が、身代わりをたてる、というものだった。
 狭霧の身代わりなのだから、当然、狭霧と似ているほうがいい。血縁が近ければ近いほどそれは効果を発揮する。狭霧と最も血の繋がりが濃い自分が選ばれるのは自明だった。七歳だ。七歳のときに、自分は弟の身代わりとして生きることになった。
 とはいえ、転んで膝を擦りむいただとか、風邪を引いて熱が出ただとか、そういった、およそ日常的な痛みを代わりに背負うことはない。
 けれど、開かずの蔵が開いた日から、それは一変した。
 アダムの『器』として生まれてしまった狭霧の中には、今、アダムが眠っている。あの日、蔵の封印が解けてしまい、アダムは狭霧という器を得てしまった。けれど今は、狭霧の中で再び封印し、彼は眠りに就いていた、はずだったのだ。
 あの蔵の中で眠っていたはずの遺物は、しかし、狭霧にとってはまさしく異物に他ならない。近衛斎のような特殊なケースであればともかく、狭霧は既に、『久遠狭霧』としての存在を確立している。あの躰に、アダムが狭霧と同時に存在するだけで、本来、狭霧の躰は常にダメージを受け、蓄積される。
 アダムが目覚めるということは、そこからさらに、封印のために注ぎ込んでいた力が放出され、逆流するということだ。そうなれば、久遠狭霧という意識は間違いなく押し潰される。そして、アダムがその躰を乗っ取ることになるだろう。それだけのエネルギィだ。それだけは、避けなければならなかった。
 そうして、今。
 自分は血反吐を吐いている。
 蔵が開き、大規模な魔力が動いたことで、直継に目を付けられただろうことは容易に想像がついた。だからこそ、直継が久遠寺という組織そのものに目を向けている間に、弟と名護真崎をふたりきりで上京させた。
 ある意味、賭けだった。もちろん、数珠による結界が完全に機能すること、狭霧の腕に施した封印が安定していること、真崎くんが名護家を継ぐに値するだけの過酷な修行を達成すること。これら三点をクリアしたからこそ父も踏み切ったとのだはいえ、その判断に、危険な真似をするものだと若輩ながらに眉を寄せもした。
 初めから此方で進学先を決めることもできたはずだ。
 けれど、父は狭霧に選択肢を与えてしまった。名護真蔵は黙って、ただそれを受け入れていた。
 自分だけが受け入れられなかった。
 抗ってしまった。
 近衛斎がどの高校に通うことになったか、自分は知っていた。狭霧に進学先を選ばせることになったとき、絶対に彼女と出会う未来など選ばせるものかと、許せるものかと、自分は弟に呪いをかけた。
 弟は、あっさりと選んでしまった。
 なんとなく、などという理由で。
 渾身の呪術だった。それが全て裏目に出た。確率がゼロに近づけば近づくほど、近衛斎にかけられた呪いが成就するなどとは、そのときの俺には知る由もなかった。それとも、自分の行いもまたすべて、彼女に呪いをかけたという少女によって定められていた道筋だったのか。
 蔵が開いてしまったあの日。
 狂ったように泣き叫ぶ狭霧を気絶させて、記憶を封じ、左腕に術式を刻み込んだ父と名護真蔵は、有事の際は自分たちの命を以て守りを強化するように、と俺に指導した。命の奪い方の指導。その後、どのように守りを強化するのか。仕事を滞りなく進められるように。自分がどう立ち回るべきか。その指導。
 なにが、彼らを、そこまで突き動かすのだろう。
 使命感か、それとも、それが己の信ずる道なのか。
 わからないのに、それでも自分は、この寺に生まれて、この組織に生まれて、当主の嫡男として生まれて、兄として、生まれて。
 わからないまま、生きることができてしまう程度には能力があった。適応ができてしまった。
 なにも知らず、呑気に生きる弟が憎かった。当たり前のように自分の手をすり抜けて、呪いさえも捻じ曲げてしまった弟が恨めしかった。それでも尚、良い兄を演じているだけの自分を兄として慕い、当然のように接してくる弟がなによりも腹立たしかった。
 なのに。
 自分は今も、こうして、己の身を差し出し続けている。
 わからなかった。
 なにも、わからない。
「凍死する気?」凛と一本の筋が通った、明瞭な声だった。
 その声に、目を開ける。控えめに炎が爆ぜる音を認識した。次に、炎の輪郭に焦点を合わせる。小屋の中は想像以上に明るかった。いつの間にか、朝を迎えていたらしい。
 声が聞こえた入口のほうに顔を向けると、引き戸に軽く躰を預けた体勢で、腕を組んで此方を見下ろす名護真墨がいた。逆光になっており、表情まではよく見えない。
「それとも焼死?」真墨が再度口を開いた。
「どっちも嫌やなあ」
 掠れた声が出る。喉は、とっくに乾燥しきっていた。粘度を増した唾が喉のいたるところに貼りついている。声を出すたびにそれが次々と剥がれていく感覚が、鋭い痛みとなって伝わった。
「その前に、一酸化炭素中毒ね」
「しゃあないやん。此処、寒いんやもん」
「じゃあ自分の部屋に戻りなさいよ」
「そしたら、聞こえてまうやろ」
 真墨は、なにが、とは問わなかった。
 唾を呑み込むと、鉄の味が混じっていた。口許を袖で拭ってみると、乾いた血が剥げたペンキの破片のように付着する。そこでようやく、自分の躰に毛布がかけられていたことに気がついた。永がわざわざ部屋から持ち出して此処まで運んだのだろう。火の気がある場所に燃えやすいものを持ち込むなど、あまり彼らしい行動とは言えない。
「それにしたって、もう少しまともな場所があるでしょうに」
「まあ、それはそうなんやけど⋯⋯」
「なんか、あんた、だいぶ老け込んだわね」
「え、なに? 急に悪口言うやん」
「鏡でも見てくれば?」
「もしかして、笑い皺ってやつ?」
「寝言は寝てから言うもんよ」真墨が入口から立ち去ろうとして、此方に背を向ける。「さっさと起きなさい」
「なあ⋯⋯」
「なんなのよ、さっきから」真墨は立ち止まると、すぐに此方を睨みつけた。「言いたいことがあるならはっきり言ってくれる?」
「だって、言うたら怒らせそうやし」
「もう怒ってるから、ご心配なく」
「自分⋯⋯、わざわざ俺のこと捜して、起こしにきたってこと?」
「あんたに報告しとくことがあったのよ」面倒臭そうな様子を隠そうともせず、真墨が答えた。「でもあんた、まだ寝惚けてるみたいだから。まずは顔でも洗って頭起こしてきなさい」
「報告?」
 真墨の目を見る。
 その表情に、俺は初めて、彼女に対して嫌な予感を抱いた。