第十章 大寒

     2/名護真崎

 早朝五時半。仄暗い朝の中、制服に着替えたオレは、机の上に置いた一枚の封筒を手に、姉の部屋に向かった。
 先ほど、この部屋を訪れた父が残した言葉を、もう一度頭の中で繰り返す。
「これがお前と直接言葉を交わす、最後の機会になるのかもしれないな」法衣を身に纏った父が、落ち着き払った低い声で言った。「次の失態は許されない。わかっているか?」
 わかっている。しかし、肯定も、「わかっている」という反復も、どれも薄っぺらい返事になってしまうような気がして、黙ったまま父の顔を見た。
「必ずお守りするように。若様の命は、お前にかかっている」父はオレの肩に片手を置き、一度だけしっかりと叩いた。「すべて、此処で終わらせる。そのためにはお前もまた、その身を惜しむことは許されない。いいな」
「はい」
 オレの返事に、父は手を離すと、すぐに部屋をあとにした。
 その後、自分は遺書を書いた。人生でこれをしたためるのは二度目だ。一度目は、中学三年生の夏休み。修行の準備として、父に無理やり書かされた。そのときは、姉に預けていった。意識を失いながら修行を終えた数日後、回収しようと姉の部屋を訪ねると、とっくの昔に燃やして捨てた、と言われた。
「あんたにはまだ早いのよ。こういうのは、惜しむことを覚えてから書きなさい」
 そのときは「あ、そう」くらいの返事をした気がする。所詮、その程度の理解だったのだ。
「姉貴」廊下から、障子越しに声をかける。「ちょっと話があんだけど」
「入って」姉がすぐに答えた。
 制服のジャケット裏、左胸の内ポケットに封筒を入れてから障子を開ける。姉は、部屋の中央に座っていた。
 姉の正面に座りながら、改めて姉の部屋をさりげなく見渡してみる。相変わらず、広い上になにもない部屋だった。壁際に文机が置かれているものの、その上にさえ、シンプルなデスクランプ以外はなにもない。昔、姉は「収納しているだけで物はある」と言っていたが、収納にだって限界はある。
「なに?」姉は片膝を立てて座っており、膝の上に軽く肘を乗せた。
 姉と自分の間には、畳の短辺、はんげんほどの距離があった。遮るものはなにもない。
「その⋯⋯、今日の昼には、家、出ようと思ってて」
「ふぅん」
「そんで、その前に、姉貴に頼みたいことがあって⋯⋯」そこで一度、自分は崩していた姿勢を正して正座をした。「なんかさ。オレたち、やべえことに巻き込まれてるっぽくて」
「でしょうね」姉は淡々とした声でそう相槌を打った。
「正直、こんなこと頼むのは、姉貴も巻き込むことになるって、思ったんだけど」事前に考えていたはずの言葉は、既に頭から全て飛んでいる。「でも、こんなこと、姉貴にしか頼めねえから」
 姉は、正面からまっすぐに此方を捉えている。
 自分とよく似た薄茶色の瞳。けれど、その視線は狭霧とよく似ている。静かな、強い視線だった。狭霧ほどの熱量はそこにない。それでも。
「なにと戦ってて、なんで対立してて、なにがどうなってんのかもわかんねえ。けど、でも、解決するためには、なにもわからないまま、それと正面切っていつか向き合わなきゃならないんだろうな、とは思ってんだ。オレは狭霧を連れて逃げる。でも、状況によっては、狭霧を逃がすためにオレはその場に残る、ってことも、有り得るだろ」
「そうね」抑揚のない、乾いた肯定。
「そのときに⋯⋯」一度、姉の顔を正面から見た。「そのときに、な」
 背筋を伸ばす。
 封筒を取り出して、畳に置く。姉のほうに向けて、その紙を差し出す。
「あとのことを、頼みたい」畳に額が触れる直前まで、上体を折り曲げる。「めちゃくちゃな頼みだってわかってる。こんなの、狭霧たちのことも、オレのことも、あとは全部姉貴に丸投げなんて、迷惑極まりないこともわかってる、でも、」
「いいわよ」
「え?」あっけないほど簡単に得られた姉の返答に、思わず躰を起こした。
「わかった」
「わかったって、そんな、あっさり⋯⋯」姉の肯定に、安堵よりも困惑が勝る。「ほんとに意味わかってんだよな?」
「なに? もっと事情を聞いてあげたほうが良かった?」
「いや⋯⋯」
 事情を聞かれていたところで、ほとんど答えられなかったはずだ。
 オレは、無関係の人間を、無関係のままで巻き込もうとしている。
「ごめん」
「なんで謝るの?」姉が問う。
 薄々わかっていた。理解はしていた。
 久遠寺の最優先事項は、開かずの蔵を封印し、存在を秘匿し、守り続けること。それから、朱雀の復活に必要な器である、狭霧という存在の秘匿と安全。
 自分の祖父も、蔵を守るために命を落とした。
 自分の父も、躊躇わずにすべてを捧げろと、自分に言った。
 何度も、何度も何度も、繰り返し、そう教えられてきた。けれどそれも、伝統か、或いはしきたりのようなもので、実際に狭霧が狙われたり、自分が命を賭けてまで守らなければならない事態など、この現代においてそうそう訪れるはずもないと高を括っていたのだ。口で言うだけならば、それは簡単なことだった。
 そうではないのだと知ったのは、つい最近のこと。
 それは、つまり、
 自分もまた、
 狭霧のために。朱雀のために。
 この寺は、オレを躊躇なく切り捨てられるのだろう。
 実の父でさえ、オレよりも狭霧を、朱雀を、この寺の存続を選ぶということだ。
 それを、ようやく、自分は正しく理解した。
 オレが生き延びようが、命を落としてしまおうが、とにかく狭霧が、朱雀が、この寺が、この世が、守られていればいい。
 それが悔しくて、こんなことを頼んでいる。
 まるで、ガキみたいな我儘だ。
 その自覚はあった。
 だから、
「心配ないわ」
「え?」
「今回だけは、後片付けも全部あたしがしてあげる」そう言って、姉は少し表情を弛めた。「だから、あとのことなんて考えずに、思いっきり暴れ回ってきなさい」
「うん、」
「弟を無理やりにでも家に連れて帰るのは、姉の役目って決まってんのよ」冗談めかして、姉はそんなことを言った。
「ありがとう、」頭を下げた。額が畳に触れる。「ほんとに、ごめん、」
 目の奥が痛い。
 止めたくても止められなかった。
 震える躰を必死に抑え込みながら、頭を下げ続ける。涙が鼻をつたって、洟を啜るたびに涙が入り込んで、嗚咽を堪えようとして、
 喉が痛む。
 息が苦しい。
「姉ちゃん、」
「真崎」姉が、立ち上がる気配。
「怖いに、決まってんだろ、」
「そうね」
「死にたくねえに、決まって、でも、オレは、」
 姉が目の前に立つ。オレは、さらに額を畳に押し付けて、蹲った。
 オレの失態で、後戻りのできない、とんでもない結末を招くかもしれない。ほんの些細な失敗が、遅れが、命取りになる。自分には、とんでもなく大きな責任がのしかかっている。それが怖い。それも、怖い。
 けれど。
 誰かひとり。
 一度だけでいい。
 そんなことしなくていいって、命を大事にしろって、生きて帰ってこいって、逃げてもいいって、周りがなんと言おうともお前のことがいちばん大事だって、絶対大丈夫だって、
 誰かひとり。
 一度だけでいいから。
 そう言って、ほしかった。
「いつか、そのときは、この身を捨てなきゃならねえ立場の人間なんだって、そんなこと、ずっと、ずっと⋯⋯」
 姉が、オレの頭に軽く手を乗せる。
 二、三度叩いて往復するだけの、雑な手つき。
 もう既に手は離れている。
 それでも。
「ッ、ありがと、」涙が堪えられない。「姉ちゃん、」
「安心しなさい。誰も来ないわ」
 姉はそれだけ言い残すと、静かに障子を閉めて部屋を出て行った。