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「なあ⋯⋯」やがて、五十嵐くんが困ったように口を開いた。「俺のせいだってのはわかってんだけど、ちょっと泣くの、落ち着いてくれねえか」
【知りません、そんなこと言われても、】
「さっきから後ろの席の奴が不審がってんだよ」顔を此方に少し近づけると、声を潜めて言った。「傍から見りゃ、男だけが飯食ってて、その上ファミレスで泣かせてんだから、そりゃ目立つんだろうけど⋯⋯」
【なんですかそれ、私のせいだって言いたいんですか】
 今の私になにを言っても無駄だと考えたのか、五十嵐くんは黙ったまま、残りのステーキを食べ始めた。
 浮かれていた自分が、今日を楽しみにしていた自分が、馬鹿みたいだと思った。何度も服を選び直して、久しぶりに箱から出した余所行きの靴を綺麗にして、鏡で前髪を何度も確かめて、そんなことをしていた自分のことを思い出して、とんでもなく恥ずかしくなった。哀しくなった。また涙が溢れ出てきた。
 しばらくハンカチで目を押さえていると、ようやく涙が落ち着いた。嗚咽を堪えていた反動で喉が痛む。ハンカチをずらして五十嵐くんの様子を窺うと、既にステーキの皿はどこにもなく、片手に持ったグラスに少し口をつけては離す、を繰り返していた。
 窓の外に目を向けていたが、私の視線に気づいたのか、すぐに此方を見た。
「落ち着いたか」
【やっと、少し⋯⋯】
「店出るぞ」
【あの、たしか、千円でしたっけ、】
「いい。自分で払う」
【でも⋯⋯】
「それより、次の店だ」
【次の店?】予想外の提案に、素っ頓狂な声が出る。【えっと⋯⋯、なんでですか?】
 五十嵐くんは少し呆れたような表情を浮かべながら、「行けばわかる」とだけ答えて立ち上がった。
 私も立ち上がり、上着を着る。片手にハンカチを握ったまま鞄を持ち、五十嵐くんの後ろをついて歩いた。私たちの後ろの席にいた三人組の女性が窺うように此方を見ていたので、なんとなく微笑みかけてみたのだが、もしかすると逆効果だったかもしれない。
 会計を済ませて店を出る。来た道を戻り、フロアマップの前で一度五十嵐くんは足を止めたが、すぐにまた歩き始めた。フードコートを通り抜けると、この建物の出入口がある。そちらに向かっているのだとばかり思っていたが、その手前で五十嵐くんは立ち止まった。
 顔を上げると、アイスクリームチェーン店のカウンタだった。ガラス越しに、色とりどりのアイスクリームが並んでいるのが見えた。名前を見ても何味なのか予想ができないものも多い。五十嵐くんは横に立てかけてあったメニューを確認したあと、店員に話しかけ、アイスをひとつ注文した。
 会計後、店員から受け取っていたカップには、二種類のアイス。
 フードコートのテーブルに着席すると、五十嵐くんはスプーンでアイスを掬って一口食べた。よくわからないまま向かいの席でその様子をぼんやり眺めていると、カップが此方に差し出される。
「お前も食え」
【え? いや、私は⋯⋯】
「黙ってりゃバレねえだろ」
【私、駄目なんです、下手くそなので、すぐ気づかれちゃうから⋯⋯】
「じゃあ、俺に脅されて無理やり食わされたとでも言え」
【そんな嘘、つけません】
「食べてみたかったんだろ。食べりゃいい」
 五十嵐くんの目が、まっすぐに此方を見ていた。
 明るい薄茶色に黄みの強い緑が混ざったような色の瞳。けれど、ときどき、薄い青色のようにも見える。
【不思議な色⋯⋯、ですね】
「アイスが?」五十嵐くんの視線が私から外れ、アイスに向けられる。
【いえ⋯⋯、五十嵐くんの目の色が】
「目? ああ⋯⋯」再び私を見た。「母親が東北のほうだからじゃねえの」
【そうなんですか?】初めて聞いた話だった。【あれ、でも、たしか、ずっとお父さんとふたり暮らしだって⋯⋯】
「写真で見たことがあるってだけだ」五十嵐くんは、テーブルの中央にカップを置いたまま、アイスをもう一口掬って食べた。「あのクソ男、母親の写真を今でも後生大事に持ってんだよ。譫言みてえに母親のこと呟きながらな」
【そうだったんですね】
「母親のほうはたぶん、親父のことなんてどうでも良かったんだろうが、親父からすりゃあ俺のせいで母親が出て行ったわけだ。その憂さ晴らしもあって、ああなったんだろ」
 五十嵐くんの家庭の事情は簡単に知っていたが、詳しい過去は知らない。あまり自分の家族の話をしたがらない人だった。だから、彼の父がどうなったのかまでは、私にはわからない。
「とにかく、いいから食え。あとのことなんかどうにでもなる。お前がそれ食ったら、次行くぞ」
【次?】
「俺が行きたいところに行く日なんだろ、今日」
【それは、ええ、もちろん、そうなんですけど⋯⋯】
「なあ。響子」五十嵐くんはカップをさらに此方に押し出すと、テーブルに肘をついたまま腕を組んだ。「お前の父親が初めから超能力なんて代物もんを知ってたかどうかまでは知らねえけど⋯⋯、少なくともあいつらにとってお前は、偶然生まれた、奇蹟みたいな、自分たちの血を分けた⋯⋯、自分たちが創り出した、」
 五十嵐くんの言葉が、不自然に途切れた。
「だから、決定権が自分たちにあると思ってる。お前をどう扱うか、どう生かすか、どう価値を活かすか⋯⋯、そんなもの、いくら親だっつっても、他人で、自分じゃない。そうやって他人がこっちの人生を握って、握り潰して⋯⋯」五十嵐くんは、無理やり息を吸って、かたく目を瞑り、静かに息を吐き出した。「そういうのが、いちばん、反吐が出る」
 信じたくない気持ちと、そうかもしれない、と思う諦めのような気持ちが、まだ綯交ぜになっている。
 けれど、その一方で、思いのほか冷静な自分が少し可笑しい。
 五十嵐くんは、どんな言葉を聞いたのだろう。聞いてしまったのだろう。
 そちらのほうがずっと心配だった。この人はいつも、自分のことは心底どうでもいいと言わんばかりの態度で、ともすれば自暴自棄とも言える人なのに、他人のことを完全に切り捨てて、無視することはできない。他人のことを、どうでもいい、とは思えない人。
 五十嵐くんは、それを認めたくないかもしれない。もしかしたら、無自覚なのかもしれない。けれど、やはり彼は、赤の他人にばかり気遣いを向けてしまう人だ。自分の評価はどうなってもかまわないと思っているくせに、他人の評価を落とすことはしないようにしようとする。自分のせいで、他人になにか悪い影響を与えてしまうことを避けようとする。良くも悪くも、自分が他人に与える影響を把握している。
 だから、
 不自然に途切れた言葉の先。
 核心の言葉は、自分ひとりで抱え続けていくつもりなのだ。
【たぶん、五十嵐くんが思ってるほど、私はショックを受けていませんよ】
「さっきまでボロクソに泣いてた奴がなに言ってんだ」
【ふふ】思わず笑ってしまう。【そうですね。でも⋯⋯、今は、プールの授業が終わったあとに履く靴下みたいな気分です】
「は? プール?」
【だって、なんか、あったかくて、気持ち良くないですか? プールのあとの靴下⋯⋯】
「靴下って⋯⋯」
 五十嵐くんが露骨に顔を顰めて、
 それから。
「マジで意味わかんねえ喩えだな」
【あ、】
「あ?」
【五十嵐くん、今、笑いました?】
「笑ってねえ」
【うそ、笑ってました!】
「笑ってねえよ」
 早く食え、と五十嵐くんが素っ気なく言い放ったのと同時に、テーブルに軽く男性が接触した。そちらを見上げると、眼鏡をかけた優しそうな、スーツを着た細身の男性と目が合う。謝罪の言葉と共に何度も忙しなく頭を下げられると、釣られて私も頭を下げてしまった。
 男性がその場を去ったのを見届けてから五十嵐くんに向き直ると、彼は名刺を手にしていた。
【なんですか? それ】
「さっきの男が落としてった」五十嵐くんはそう言って、此方に少し名刺を見せる。三宅、という名前と、ボールペンでなにかが書き足されているのが此処からも見えた。
【届けに行きますか? 落としましたよって⋯⋯】
「いや」五十嵐くんはその名刺を、財布の中にしまった。「それより、さっさと食え。家具見に行くぞ」
【え? 家具?】
「おう」
【急にどうしたんですか? あ、もしかして、お部屋の模様替え⋯⋯、とか?】
「バカ言え」そう言って、唇を軽く嚙みながら笑った五十嵐くんの顔を、きっと私は、この先ずっと忘れられないのだろう、と予感した。
「家出の準備に決まってんだろ」