(2,5)

 
     1/十月十七日
 
 インターホンの無機質な音が、初めてプレゼントのように感じられた。
 高い柵に囲まれた中庭で寝そべっていた犬がインターホンの音に反応して機敏に立ち上がり、玄関に向かって吠え始める。犬を宥めながらサンルームのガラス戸を閉めている間に、母が返事をしてリビングを出てしまった。慌てて母を追いかけて引き止めたあと、靴を履いて玄関の扉を開ける。
 庭を挟んだ向かい側。門扉の前には予想どおり、五十嵐くんが立っていた。目が合うと、彼は軽く片手を挙げてみせる。
「どなた?」私に続いて玄関から出てきた母が言った。
【五十嵐くん】答えながら、鞄を肩にかけ直す。【それじゃあ、行ってきます】
「あら、ちょっと、もしかしてあの五十嵐くん? やだ、お世話になってるんだからご挨拶しとかなきゃ⋯⋯」
【いいよそんなの、五十嵐くんが困るから⋯⋯】
「あ、ちょっと、貴方!」母は後ろを振り返ると、開けっ放しになっていた玄関から家の中に向かって声をかけた。「五十嵐くん、いらっしゃったって!」
【待って、もう、お父さんまで呼ばなくていいってば!】
「ほら、早く出なさい」
 母に背中を軽く押されて庭に出る。家の中からしきりに吠え声が響き渡る中、五十嵐くんは「それ見たことか」とでも言いたげに眉を寄せた。
 五十嵐くんは、無地の白いスウェットの上にネイビーのマウンテンパーカーを羽織っている。さらに、下は黒のスキニーパンツという非常にシンプルな装いだったが、思いのほかきちんとした出で立ちだった。急激に、自分の着ている服をもう一度鏡で確かめたくなった。いつもと違い、今日は、ハーフアップにして髪を下ろした。それでも、今日の五十嵐くんの隣に立つならば、もう少しそれらしい装いがあったような気がする。五十嵐くんは、もっと、Tシャツ一枚とかスウェットとか、そういったラフな恰好で来るものだとばかり思っていた。なにせ、彼の私服姿を見たのはこれが初めてだったのだ。
 母の姿を確認した五十嵐くんは、小さく会釈をした。そういえば、いつも身に着けている無音のイヤフォンも見当たらない。
「初めまして、響子の母です。いつも娘がお世話になっております」
【あの、お母さん、お世話になってます、だって】五十嵐くんにだけ聞こえるように話しかけた。【特にお世話にはなっていませんけど⋯⋯】
「いえ」私が伝えた母の言葉に、五十嵐くんが控えめに答える。「五十嵐聡介です。初めまして」
「お友達とお出かけするなんて初めてじゃないかしら。ね?」
【私が友達と出かけるの、初めてだって話をしてます】
「自分も初めてです」五十嵐くんは、さりげなく手話を交えて母にそう答えた。
「あら⋯⋯」母は驚いたようだ。「手話ができるの?」
 対外的には口がきけないことになっている私は、家の外では筆談か手話でコミュニケーションを取る。だが、手話というものは、相手が理解できなければ意味がない。そのため、外ではもっぱら筆談で会話をするのだが、どうしても、実際に喋るよりもやり取りのスピードが数段落ちる。結局、必要最低限のことを伝えるにとどまってしまい、今までは誰かと親しくなることもなかった。
 その点、五十嵐くんは中学生の頃に手話を勉強していたらしい。実際、あまり手話を披露することがない自分よりも、彼の手話はとても慣れた手つきだった。
 両親には、五十嵐くんが超能力者であることも、私が彼に自分の超能力をカミングアウトしていることも伝えていない。手話でコミュニケーションを取っている、という口裏合わせができるのは幸いだった。それに、学校で唯一手話を理解できる人と友達になったという流れはそう不自然ではないはずだ。
【手話できるんだね】母の言葉をそのまま五十嵐くんに伝える。
「中学の頃に覚えました」
「そう⋯⋯」
「おや、君が⋯⋯」私と母の後ろから、父が姿を見せた。「こんにちは、五十嵐くんだったかな。二階堂です。響子、あまり、夜は遅くならないように」
「夜ご飯までに帰ってくるのよ」
 不意に、五十嵐くんの眉が少し寄せられた。露骨なものではなかったが、思わず顔に出てしまった、という感じだった。両親はどちらも私を見ていたので気がつかなかったらしい。
【それじゃあ、そろそろ、行ってくるね】
「気をつけて行ってくるのよ」
 門扉を開けて道に出る。五十嵐くんは、両親に軽く頭を下げてから歩き始めた。私もそちらを振り返って控えめに手を振ってから、五十嵐くんについていく。
【来てくれてありがとう】もう一度後ろを振り返ると、両親の姿は既にそこにはなかった。【ごめんなさい、今日は、面倒なことをさせてしまって⋯⋯】
「べつにいい」
 色の薄い瞳が、此方を一瞥した。
【あの⋯⋯、なにかありましたか?】
「まあ、あったといえばあったな」
【もしかして⋯⋯】真っ先に思いついたのは、言葉にすることを少し躊躇う予想だった。けれど、状況的には、これ以外にはあまり考えられない。【両親が、五十嵐くんのこと、なにか⋯⋯、悪く言ってました?】
「否定はしねえけど、んなの、いつものことだ。今さらいちいち気にするようなもんでもない」
【じゃあ、いったい⋯⋯】
「父親、なにしてんだ」
【え?】
「仕事」
【ああ、えっと、大学の先生です。なにを研究してるのかはあまりよく知らないんですが⋯⋯、それがどうかしましたか?】
「家族のこと、好きか?」
【ええ、まあ⋯⋯】
「そうか」
【どうしたんですか?】
「いや⋯⋯」とだけ答えて、五十嵐くんは眉を寄せて此方を見た。しかし、頭を軽く振ると、すぐに顔を正面に戻してしまった。「で、どこ行くんだ、今日」
【え? あれ、じゃあ、今どこに向かってます?】
「俺は適当に歩いてるだけだ。お前がなんも言わねえから、駅のほうにでも向かってんだと思ってたけど⋯⋯」五十嵐くんは呆れた様子を隠しもせずに溜息をついた。「なら、今のうちに決めとけ」
【でも、今日は私が無理やり付き合わせてしまっているわけですし、その代わりと言ってはなんですけど⋯⋯、せっかくなら、五十嵐くんの行きたいところがいいです】
「俺に行きたいところがあると思ってんのか?」
【うーん、あ、じゃあ、食べたいものは? なにかありませんか? それにほら、今日は私の奢りですよ】
「腹に溜まる系」
【たとえば?】
「さあ⋯⋯」五十嵐くんは気怠そうに呟いた。「なんか、食いもん屋が集まってるような場所とかねえの」
【レストラン街のことですか?】
「もっと雑なところでいい」
【私も、実は、両親以外と外に出たことがないので、あまりよく知らなくて⋯⋯】考えているうちに、自然と顔が持ち上がり、少しだけ空を見上げる。全体的に薄く雲がかかったような、淡い青色の空が広がっていた。【そういえば、電車で二駅行ったところに、ショッピングモールがありますよ。そこなら、いろんなお店があるので退屈はしないと思います。フードコートもありますし】
「じゃあ、このまま駅に向かってりゃいいのか」
【そうですね】
 隣を歩く五十嵐くんに目を向ける。
 五十嵐くんの髪は、何色と言うのか、少し不思議な色をしていた。黄みがかった昏いグレイのような、茶髪と金髪の間のような、色の薄い髪。今は、太陽の光を受けて白飛びしたように色を失っている。珍しい色だが、本人曰く地毛らしい。
 五十嵐くんが、不意に此方を見下ろした。
 しっかりと目が合う。
【あ、違うんです、短い髪型も似合いそうだなと思って】
「まだなんも訊いてねえよ」
【髪、切ったりしないんですか?】
「髪切んのに金出すくらいなら食費に全部回す」
【そっかあ⋯⋯】ほんの少しだけ、残念だな、と思った。随分と自分勝手な気持ちだな、とも自覚した。【でも、それもそうですね】
「変な奴」五十嵐くんは口許を僅かに歪めて息を吐き出した。