(2,5)

     3

 五十嵐くんの言葉が、しばらく理解できなかった。カチクを漢字に変換することもできず、モルモットがなにを意味する単語だったかを思い出すことができなかった。
【それは、そうですね】ようやく思い出したところで、しかし五十嵐くんがなにを言いたいのか、それもわからない。私はただ、そうとしか答えられなかった。
 しかし、ひとつ、わかったこともある。
 五十嵐くんはおそらく、今日、両親と対面したときに、私に関するなにかを聞いてしまったのだ。そして、それを私に伝えるべきかどうかで悩んでいるらしい。それがもし、私が知らなくてもなんら困らないようなどうでもいいことだったのであれば、こうやって、なにかあると匂わせたりする人ではないからだ。誰も寄せつけたがらない見た目や言動の一方で、五十嵐くんには他人に対して非情になりきれないところがあった。
 優しい人だ。だからこそ、超能力にずっと苦しめられてきた人なのだろう、と思う。
 ずっと、思考の声を聞き続けている。他人に向けて放たれる、綺麗にあしらわれた言葉ではなくて、剥き出しの本音。そんなものだけを、そんなものばかりを浴び続けるというのは、きっと、自分には想像もできないような苦しみがある。
「食われるために育てられたからって、べつに、そいつらが望んで家畜になったわけじゃないだろ」
【あの、その話、お肉を食べながらするんですか?】
「幸せに生かしたから⋯⋯、なんて、食べる側のエゴでしかねえよ。どうせ正当化したいだけだ。俺たちは、自分たちが生きるためだけに丹精込めて育てて、餌に気ィ使って、ストレスのないように生かして、その上で殺してんだ」
【動物を食べてはいけない、というお話ですか?】
「そうじゃない。それを自覚してるかどうかのほう」
【自覚⋯⋯】
「お前も同じだ。響子」五十嵐くんが、静かに顔を持ち上げて此方を見た。
 先ほどの、五十嵐くんの言葉をもう一度思い出した。
 私は家畜でも、モルモットでもない。
【えっと⋯⋯、つまり、両親が、私を丸々と肥えるまで育てて、食べようとしてる?】
「違う」
【ヘンゼルとグレーテルみたいな?】
「そっちじゃねえ」
【うーん、でも、それだけを聞くと、ただただ良い暮らしを送っているだけの人間だなって、思ってしまうのですけど⋯⋯】
「お前の、」彼は一度口を薄く開けると、舌を所在なげに動かした。歯をなぞっている舌が、控えめに見えた。「お前の超能力それを調べるためには、お前が要るだろ」
【調べる?】
 予想していなかった答えに、少し大きな声が出てしまった。
 それから思い出したのは、定期的に父に連れられて訪ねる大学病院。
 思わず、右腕の肘を撫でる。
 何度検査をしても「健康ですね」の一言で終わる、いつもの健康診断。いつもの採血。いつもの細胞診検査。
 でも、
 調べていた?
 超能力を?
 誰が?
【お父さんが?】
「そう」五十嵐くんはほんの少し乱暴にステーキを切り分けて口の中に放り込んだ。
【お父さんの研究に、超能力が関係してるってこと?】
「だろうな」
【そんな、研究って、まさか⋯⋯】
「少々過保護なだけだ、なんて、まさか思ってねえだろうな」
 たしかに、思い当たることがないと言えば嘘になる。けれどそれも、五十嵐くんに指摘されたことで初めて気がついた程度の違和感だ。
 それだけ自分の環境が、自分にとって最も自然な、当たり前のものだった。
 でも、それが普通じゃないのだろうか。
 自分の家だけが、自分の世界だったのだ。友達はいない。テレビを見たこともないのだから、クラスメイトの話題についていけるはずもない。家族以外の誰かと、そんなプライベートな会話をしたこともない。
【だって、そんなの、わからなくないですか】
「そりゃそうだ」五十嵐くんはすぐに頷いた。「お前を責めてるわけじゃない。そこは、間違うな」
【でも、ほんとは、本当に、過保護なだけかも⋯⋯】
「なあ」五十嵐くんはステーキにフォークを軽く刺したまま、ナイフを何度も往復させて切り分けた。「お前、こうやって俺たちの前に出された肉が、俺たちに食われて喜んでる、なんて思うか?」
【いえ⋯⋯】ステーキから少し視線を外して、逃げるように机の木目を見た。【喜んでるかどうか、と言われると⋯⋯】
「だろうな。そんなもん、俺たちの罪悪感を少しでも減らしたいだけだ。まさか自分たちが、こんなに丁寧に育てられた最後にゃ丁寧に殺されて食われることになるなんて、思ってもみなかっただろうよ。食われて喜んでる、なんてのは幻想だ。俺たちが勝手に押し付けたもんだ」
【五十嵐くん、】
「甲斐甲斐しく世話されて自由気ままに生きてるつもりが、実は飯に毒混ぜられてました、いつ毒が効いて、何匹生き残るか、それを確かめるために生かされてただけでした⋯⋯、なんてネズミが、この世に何匹いるだろうな」
【やめてください、】
 涙が落ちた。止める暇もなかった。
 急激に目の奥が熱くなって、熱い液体が目から押し出されて、落ちる。
【お願い、】
「学校なんかに通わせなきゃ良かったんだ」五十嵐くんは私の声を無視するかのように言った。「そしたら、お前が気づくことなんてなかった」
 五十嵐くんは、静かにナイフとフォークを置いた。
 その手許だけが、涙で滲んで見えていた。
「お前も、薄々自分で気づいてんだろ」
【誰のせいだと思って、】
「俺の言葉なんて信じなくていい。信じられねえのも、信じたくねえのもわかる。実際、聞こえてきた言葉の端切れを俺の推測で繋ぎ合わせてるようなもんだ。ああそうなんですか、なんて、いきなり簡単に信じられちまうほうが困る。でも、もしもお前が今、自分は幸せで、このままでいいと思ってるなら、俺はそれを間違ってるとは言わねえし、そもそも言えねえよ。俺が口出しした時点で、なにを言おうがそりゃ全部ただの押しつけだ。だから、お前が本当にこのままでいい、それでいいって言うなら、俺だって黙ってる。だけど、お前はそうじゃないだろ。このままでいい、なんて、思ってるはずがねえ」
【なんで⋯⋯】
「当たり前だろ」五十嵐くんは、テーブルに片肘を置くと、頬杖をついた。「そんな奴が、俺がふざけてUFOとか言ったくらいであんな露骨に食いついたり、それが嘘だったからって、あんなに怒ったりするかっつの」
【それ、今のお話と、関係なくないですか】
「ある」
【なにそれ⋯⋯】鞄の中からハンカチを取り出して、ようやく目許を拭いた。
 ずっと覚えている本の表紙が、ある。
 小学生の頃にこっそり図書室で読んだ、世界のミステリィシリーズ。不思議な遺跡と遺物辞典。その文字が、赤くて太いゴシック体でぎっちりと詰め込まれていた。タイトルの下にはピラミッドや大きなひとつ目、不思議な機械の写真などがランダムに配置されている。ちょっと昔の本だな、と小学生ながらに思った程度には時代に取り残されたデザインの表紙で、それがまた妙な怖さと雰囲気を醸し出していた。
 教科書と親が許可を出した本以外に、私が初めて読んだ本だった。きっとそれが、私が生まれて初めて抱いた、ほんのちょっとの反抗心だった。
 私だって、自分で本を選んで読むんだ、と意気込んで図書室に足を踏み入れた。けれど、棚を見上げて驚いた。どれを手に取れば良いのか、どれを開いてみたら良いのか、そもそも自分はなにを探せば良いのかもわからない。なにもわからないまま、ふわふわとした足取りのまま棚の間をただ歩いていたとき、偶然、手に取った本がそれだった。
 それが、私の中で唯一の娯楽的な話題だった。
 結局それも、早々に母に知られてしまい、両親にはもう二度と見ないようにと怒られてしまってそれきりだ。
【私ばっかり、好きだったんだ、】また、目の奥に熱が集まった。顔に押さえつけたハンカチが新しい涙を吸い取る。【そっか、やっぱり、そっか⋯⋯】
 五十嵐くんはなにも答えない。
 そうか、彼には、私の思考こえはなにも伝わらないのだと、熱く痺れた頭の隅でそんなことを思った。