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     4

 法事が始まったようだ。僕の仏壇が置かれている部屋に父が入っていくのを、僕たちは縁側から見ていた。忌日法要の最終日、七七日法要が今日おこなわれる。
「今日が忌明けって言うんだっけ?」
「そう⋯⋯」姉が煙草の煙を吐き出した。「つまり、お前の魂が今日、この家を離れるわけね」
「え、そうなの?」
「さあ。詳しくは知らないけど」
 姉は縁側に座ったまま、庭の地面を眺めている。
 姉のお腹が小さく鳴った音を聞いて、この躰が空腹であることを知った。
「お腹空いた?」
「それなりに」
「じゃあ、法事が終わったらお供え物でも食べる? ほら、母さんが僕の仏壇によく置いてくれてるでしょ。果物多めだけど」
「わざわざそんなところから盗らなくても、普通に冷蔵庫から拝借するけど」
「拝借って、一度も返したことないけどね」
「返そうと思えば返せる」姉は口をわかりやすく歪めた。「今の私、万引きし放題だから」
 どういう原理か、僕を殺した日から、姉の姿は誰にも認識できなくなった。
 原理はわからないが、そうなるだろう、と僕も姉も理解していた。なぜかはわからなくても理解できることはある。この地球では、手を離せば林檎は落ちる。それと同じくらい、直感的に理解することができた。
 僕の躰は死んでしまったが、僕の意識は生きている。そして、僕の意識は姉の躰に収まった。その結果、姉の姿を捉えることは誰にもできなくなった。見えなくなったわけではない。姉の姿を見ることはできる。けれど、それを記憶していられないのだ。姉を見て、その姿を認識する前に、その記憶は忘却される。だから認識できない。そうして姉は、僕という存在を取り込んだ代わりに、姉という存在を手放した。
 存在とは、他者に認識されることで初めて確かになるものだ。僕が「僕です」と言ったところで、それは僕が僕である証明にはならない。僕以外の誰かが、僕を指差して「彼は彼です」と言及しなければならない。
「なに?」僕の意識を釘づけにする、姉の声。「万引きは犯罪だって言ったのはお前でしょう」
 姉の言葉で、僕はどうにか先ほどの会話を思い出した。
「そういえばそうだったね。え、もしかして、それを律儀に守っていたの?」
「悪い?」
「いや、ううん。そんなことない」
「お前が眠っている間なら、私はなんでもできるもの」
「あ、そうか⋯⋯」たとえば、姉がトイレに行っている間やお風呂を勝手に使用している間は、僕はとても短い眠りに就いている。そうすることでプライベートを保っているのだ。「それは困るな」
 やがて、父の声が障子の向こうから聞こえ始めた。お経を唱えるときの父の声は、とてもよく聞こえる。躰が音波で微振動しているように感じられるほどだ。
 焼香の煙の匂いが、少しずつ漂い始めた。煙草とはまったく違う。どちらも、かつての僕の躰ではとても耐えられるものではなかったが、今は匂いの違いまでわかるようになった。不思議な感覚だった。
 姉は毎週、法要の時間になると、煙草を片手に部屋に背を向ける形で縁側に座る。初めは偶然だと思っていたのだが、四回目あたりで、ようやくそうではないと気づくことができた。つまり、姉が僕の法要の時間に合わせて、仏間のある部屋の前まで足を運んでいるのだ。今でもあまり信じられない。それほど意外なことだった。姉は僕に興味などないだろうし、いくら双子の片割れとはいえ、僕のことをそんなに好きなわけではないと思っていた。ほとんど会話をしたこともない。姉が見舞いにきたことなど数えられるほどで、それも渋々といった様子だった。
「もしも今日、僕がいなくなったらさ」
 しまった、と思ったときにはもう遅い。
 きっとまた姉の機嫌を損ねてしまうのだろう、と僕は予感しながら続きを口にする。
「そしたら、僕は間違いなく僕の魂だったって⋯⋯、この意識は姉さんが生み出した幻想なんかじゃなかったんだ、っていう、証明になるのかな」
「またその話?」予想どおり、姉さんはあからさまに眉を顰めた。「その理屈でいくと、まるで消えたがってるみたい」
 顔を歪めたまま、姉は鋭く息を吐き出す。苛立っていることはすぐにわかった。苛立つだろう、ということも予想できていた。しかし僕は、どうして姉が苛立っているのかがわからない。
「消えたいわけじゃないよ。でも、もしも消えてしまうことになったとしても、それで僕が僕だったことを証明することになるなら、べつにいいかなって思えるというか、受け入れられるな、と思っただけ。それに、明日もまだ居座っていたとしても、別の方法で証明すればいいだけの話だし」
「都合が良すぎる」
「姉さんだって、自分の都合がいいように考えているだけかもしれないよ」
 障子の向こうでは、般若心経が始まっていた。母の声もときどき幽かに聞こえるが、ほとんどは父の声に掻き消されている。
 穏やかな時間だった。
 このままずっと、この時間が続けばいい、と思った。
 でも、姉さんはどう感じているだろう。
 わからない。
 わかりたいと思うのに、わかりあえない。
 言葉にして確かめあったところで、本心はわからない。
 その言葉が本物だなんて確証はどこにもない。
 そんな不確かなものを形にして示したところで、不確かなままなのに。
 わかりたくて、わかってもらいたくて、僕たちは形にするのだ。
「姉さんは、どうして僕を殺してくれたの」
 僕の声が空気を震わせることはない。
 姉も、無言のまま。
「ずっと、僕は姉さんに嫌われているんだと思ってた」
 般若心経が低く振動している。
 啜り泣く、母のか細い声。
「だから、きっと鼻で笑われて、適当にあしらわれてしまうんだろうなって思ってた」
 平日の午前。
 静かな青空。
「正直、僕の話を信じてくれるなんて、思っていなかったんだ」
 僕たちに落ちた濃い影の中、姉は沈黙を貫いている。けれど、それが姉の誠実さだった。僕は思ったことがすぐに口から出てしまうので、姉のように振舞うことはできない。だからこそ、語らない言葉の誠実さを感じることができている。
 でも。それでも。
 同じ躰を共有していてもわからないのだ。
 姉さん。
 不確かでも、不誠実でも、僕たちはなにかで示しあわさなければ、なにもわからない。
 だって、この意識は僕だけのものだ。
 他の誰も侵すことはできない。
 家族だって、友達だって、国だって法律だって、僕の意識を侵せない。
 思っているだけじゃ、なにもわからない。
 なにも伝わらない。
 そうしてずっと抱えてきた後悔が姉さんの中に在ることを、僕は知った。
「姉さんは、なにを後悔しているの?」
「私は、後悔なんてなにも⋯⋯」
「だめだよ」姉の声を遮る。「明日には僕、いなくなっちゃうかもしれないだろ」
 姉は一度、大きく息を吸って吐き出した。
 目を閉じる。
 なにも見えない。
 障子の向こう、
 父が唱える般若心経が、今、静かに終わった。