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 僕と姉は双子だった。双子といっても、どちらかといえば同時に生まれてきた姉弟と言ったほうが近い。外見はそれなりに似ていたが、性格はあまり似ていないと思う。最も対照的だったのは躰の強さで、姉は病気知らずの健康体だったが、僕は昔から病院と家を行き来していた。
 孤独な病院の個室では、僕の話し相手は母だけで、父や姉が見舞いに来ることはほとんどなかった。
 父は小さな寺の住職をしており、決まった休日はない。電話が鳴るのは突然だ。そんな、顔も知らない誰かの哀しい知らせが、父の仕事の合図だった。けれど、忙しい日々の中でも父は毎日僕を思ってお経を唱えているのだと、母は毎日のように教えてくれた。それはきっと本当のことで、母はもちろん、父がどれほど僕のことを心配し、考えてくれていたのかは、僕にも少なからず伝わっている。
 ただ、姉が僕のことをどう思っていたのか、それだけはわからないままだった。今もわからない。
 思えば、姉のことを理解できたためしなんて、一度もなかった。それはきっと、姉も同じだろう。僕たちは、お互いのことが、いちばんよくわからない。
「寝癖か⋯⋯」姉はそう呟いて、それから顔を少し歪めた。
 僕たちは今、鏡の前に立っている。まだ午前中のはずなのに、時代に取り残された古い手洗い場は仄暗い。薄汚れた水色のタイルは、あまり登校したことがないにもかかわらず、小学校のプール裏にあった更衣室を連想させる。
 鏡に映し出されているのは、細縁の丸い眼鏡をかけた姉の姿と、姉の持つ手鏡に映る後頭部の寝癖。
「姉さんって、寝癖とか気にするタイプだった?」
「べつに」姉は手鏡を戻しながら言った。「今さら誰の目を気にするっていうのよ」
「誰も見ていなくても、自分が嫌だったりしない?」
「私はどうでもいい」姉は寝癖を直すことなく洗面台から離れた。
 一瞬だけ、僕は鏡を盗み見る。薄汚れた鏡には姉の横顔が映し出されていた。歩くたび、寝癖が僅かに揺れている。髪の長さも僕と同じ程度に短いため、姉にはどこか男性的な雰囲気があった。僕があまり男性らしくなかったこともあり、僕と姉の外見は、血が繋がっているとわかる程度には似ている。
 姉は、背中を伸ばしきらずにオーバサイズのジャージを気怠げに着崩していた。黒のラインが入った白いジャージ。中には黒いTシャツを着ている。下は、黒地のレギンスだった。
 袖から覗く白い肌。
 均等に配置された黒い瞳と、赤い唇。
 モノトーンを基調とした姉の中で、しかし、唇の赤さだけが、異様に鮮やかな色を孕んでいる。
「やっぱり、最近のお前は少し可笑しい」姉の唇が蠢いた。
「可笑しいって、たとえばどの辺りが?」僕は姉にだけ聞こえる声で答えた。「でも、僕の現状がそもそもかなり可笑しいわけだから、さらに可笑しいってことは、それってつまり、正常ってことじゃない? 裏の裏は表、みたいなさ」
「現状?」
「僕が、姉さんの躰の中で生き長らえている、この現状だよ」
「お前が本当に、私の弟ならね」姉は鋭い息を吐き出して笑った。小振りな唇の隙間から、白い歯が僅かに覗く。
「どういうこと?」
「そのままの意味よ」
「僕は、姉さんの弟だろ?」
「どうしてそう言いきれるの?」
「どうしてって⋯⋯」僕は困惑した。「僕は姉さんの弟だから⋯⋯、それ以外に、どう答えたらいいのさ。僕にはちゃんと意識があって、だから今、こうして姉さんと会話ができてるんだろ。そりゃあ、躰はないけど、僕には今までの、僕として生きてきた記憶もあって、しかもそれはちゃんと連続している」
「じゃあ、自分の記憶を全部ロボットにコピーすれば、そのロボットもお前になるわけ?」
「それは違うよ。ロボットには意識がない」
「意識なんて、単なる現象よ」姉は当たり前のことのように言った。「いずれ機械にも意識は宿るわ。つまり、この世のすべては単なる現象であって、たしかに存在するものなんてない、幻想だということだけれど」
「ロボットの話はどこにいったの?」
「なら、ロボットのところを、他人の躰、に置き換えてもいい」
「他人の躰に僕の記憶をコピーさせたら、僕になるか?」
「そう」
「どうだろう⋯⋯、それは少し違う気がするかな」漠然とした感覚を、手探りで言葉に落としこんでいく。「僕の記憶を持っていても、考え方とか言葉の選び方とかは、やっぱり違うんじゃないかな。記憶だけをコピーしたって、なんていうのかな、そう、僕の心みたいなものを丸ごとコピーできるわけじゃない。僕の心とか、意識そのものを移動させることができないなら、それは僕じゃなくて、新しく始まった僕⋯⋯、という感じがする」
「それは、今のお前にも当て嵌まるでしょう」
 姉は自室に戻ると、畳の上に座って眼鏡を外した。ジャージの裾で拭いているが、汚れが薄く引き伸ばされているだけだ。実はそこまで視力が悪いわけではないと知ったのはつい最近のことである。ファッションとして眼鏡をかけているのかもしれない、と一瞬考えたが、姉は少なくとも眼鏡をお洒落だと考えるタイプではない、と思い直す。
「姉さんには、きっと僕の心ごと移動しているよ」
「どうだか」姉は眼鏡をかけ直した。「それがわからないから、私はお前が本当に自分の弟なのかがわからない」
「言いたいことは、なんとなく、わかったけど⋯⋯」
「けど?」
「躰と魂が別々のものだったら、もう少し話は簡単だったのにね」
「意識、なんてものも、結局は脳という躰が生み出しているんだから、お前の脳ごと私の躰に移し変えでもしない限り、やっぱり無理よ」
「じゃあ、姉さんは、僕のことをなんだと思っているの?」
「私」姉が答えた。
「それ、どういう意味?」
「ああ、もう⋯⋯」姉が苛立たし気に舌を打った。「とぼけないで」
 それから僕は、口を開くことができなかった。昔から、どういうわけか、僕はすぐに姉の機嫌を損ねてしまう。姉の機嫌を損ねたいわけではない。それどころか、僕としてはもう少し仲良くなりたくて、僕にはもっといろいろな表情を見せてほしいと思っている。
 血の繋がり、というものはよくわからないけれど、それでも僕が「姉さん」と呼ぶことができる人は彼女だけであって、姉にとって「弟」とは僕ひとりだけなのだ。もちろん、僕と姉は他人だ。けれど、他人の中でもほんの少しだけ特別な名前のある関係性を持つ、唯一の相手でもある。仲良くなりたいと思うのも、笑ってほしいと思うのも、健康に長生きしてほしいと思うことだって可笑しな感情ではないはずだ。
 そんな僕の思いとは裏腹に、姉はまた煙草を取り出して咥えると、ライタで火を点けた。
 いつから吸い始めたのだろう。僕は、姉の躰に取り込まれるまで、姉が煙草を吸っていることなど知らなかった。
「煙草、いつから吸ってたの?」姉に訊ねる。
「なに?」どうしてそんなことを知りたがるのか、という意味だろう。
「僕、全然知らなかったんだ。姉さんが煙草を吸ってること」
「でしょうね」
「隠していたの?」
「隠したことなんて一度もない」姉は煙を吐き出した。
「え? 隠してなかったの?」
 質問を繰り返すと、姉はあからさまに不機嫌な顔をした。そして、嫌がらせのように煙を大きく吸った。その苦さに僕の顔が歪む。それが見えているかのように目を細めていびつに笑うと、姉は煙草のフィルタを軽く嚙んだ。
「それじゃあ、いつから?」
「お前を殺した日から」姉が言った。僕は、なるほどな、と思った。